事件現場を、訪れてみました。
悲しいけれど、そんなことがあったからといって道が封鎖されているわけでもなく、賑やかしい音楽とアナウンスと喧騒が、何事もなかったように、そう振る舞っているかのように、満ちています。
献花台と、そこに群なす人々の姿だけが、その記憶を目に見えないものに刻むかのように、佇んでいました。
悲しいけれど。
直接関わった人々以外、マスコミによって思い出させられるそのときまで、その記憶は呼び起こされないものになってしまうでしょう。
悲しいけれど。
わたしは、自分勝手で、そういう資格がなく、なぜならわたしも、きっとそうしている類いのやからだろうから、だけれども、携帯でその写真を撮っている姿に、嫌悪感を覚えてしまいました。
こんなことを口にしても、それは偽善だということもわかっています。
なぜなら、真剣な面持ちで、きちんとしたカメラを構え、神妙にシャッターを切る姿であったとするならば、それは容認してしまうだろうからです。
ただカメラか携帯かの違いなだけなのに。
携帯のカメラは、イコール誰かに流すためのもの、という固定概念、いえ、偏見を持ってしまっているだけなのかもしれません。
携帯電話のカメラ性能の向上と普及で、誰もが目撃情報を画像や動画で記録できるようになり、それを貴重な情報として警察機関が広く求めることができるようにもなりました。
そして。
素人とは違う映像、技術、それらの差別化、というわけではないのかもしれないけれど、マスコミの情報の伝え方に異論を唱えたく思えてしまいます。
伝え方ひとつで、焦点の当て方ひとつで、その喉元に突きつける刃の先を選ぶことができます。
加害者。 被害者。 家族。 友人。 知人。 社会。
あなたは、誰の喉元にその切っ先を向けようとしているのですか?
無関心であることも悲しいけれど、煽られることも、また、悲しいことに思います。
だからそれが、必ずしもいけない風潮なのかどうかはわかりません。
しょせんわたしも、都合のよいように「うそ話」を描いている人間ですから……。
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