「隙 間」

2008年06月18日(水) 偏った妄想

 学校施設の天窓からの児童転落事故。

 悲しくて、とても悔しい事故なのだと思う。

 教師の監督責任ということを槍玉にあげるかもしれない。
 学校の施設管理責任ということもある。

 そして、児童の行動管理責任、というものはないのだろうか。

 子どもなのだから、そんなことはできるはずがない。

「危ないことはやってはいけません」

 との普段からの教育・しつけができていれば、この事故は防げたのだろうか。

 おそらく、防げなかっただろう。
 どれもこれも皆「詭弁」にしかならない。

 天窓の製作メーカーは設置の際に、

「危険喚起として防護柵等の設置」

 をお願いしていたという。
 しかし、

「そもそもが通常立入禁止のところなのだから、出入口を施錠してしまえば誰も来ない」

 と、それを敬遠する。
 施設設計の段階では、しごくまっとうな思考だと思う。
 ところが、施設運営・管理の段階に移り、当初の思惑とは違う使われ方をするようになる。
 これもまた、好ましくはないのだが、仕方のないことなのかもしれない。

 通常立入禁止の屋上。

 屋上には、原則的に転落防止の柵を廻されている。
 しかしそれは外に向かってのもの。
 屋上利用を禁止する施設もあれば、鳥かごのようにフェンスで囲み、使用できるようにしている施設もある。特に校庭を十分に確保できない施設などはそのようにしているところが多い。

 立入禁止にしてあるはずの屋上に児童を連れて、いくら授業の円滑な進行のためとはいえ使用してしまったという過ちは、ある。

 しかし。

 報道の伝え方に踊らされていることがあるのかもしれないが、

「安全であるはずの学校に、子どもを通わせることができなくなる」

 と、おそらく誇張された意見だと思うのだけれども、それを聞いたときにわたしはやるせなくなった。

 例えば憩いや遊びの場であるはずの公園で、その遊具が原因で事故が起こり、それらがいっせいに撤去されてしまうこともあった。
 天窓の周りに、転落防止上必要な堅固な柵が、今後は設置を義務付けることのなるのかもしれない。

 それが嫌なのではない。

 危険に対する対応の仕方が、最近の社会ではどうにもずれてきているような気がしてならない。

 結果のひとつひとつを、対処療法的であるにも関わらず、極端な形で対処することを望む声ばかりが聞こえるように思える。

 根本的な原因というものを見ようとすることなく、解決する姿勢。

 それは効果も目に見えてわかりやすく、安易なものだと思う。

「危険なものは、それが危険なのだと教える前に排除してしまえ」
「危険の原因だと判断したならば、根絶してしまえ」

 その声に、共感するだけならまだしも、その感情に我がことのように酔いしれる。

 危険がないにこしたことはないが、そうして危険の全てが根絶・排除されてしまった環境の中で、人は果たして「人」として生存してゆけるのだろうか。

 今回の事故のことをのみ指しているのではない。

 これはこうすると痛いよね。
 こうすると壊れちゃうよね。
 だから、こうしちゃいけないんだよ。

 と、危険や痛みを知ることなく育てられてしまうかもしれない幼な子たちを、わたしは想像する。

「危ないかなんて自分じゃわかんないよ。書いてなければ危なくないんじゃないの? もし危ないんだったら、書いてないやつの責任でしょ」
「刺したって死なないんじゃないの? だってほら、ゲームやテレビじゃ簡単に死なないじゃん」

 さらりと、笑顔で軽く答える人々。
 自分が与えられた痛みを、例えばちょいと鞄の角が当たった程度で、

「いってえっ! てめえ、やり返してやる!」

 と、相手のその鞄を奪って、力加減もわからず全力で殴りつける。
 そんなことが当たり前の感覚しか持ち合わせていない世界。

 それらの全てが。

 わたしの偏った妄想の中だけのお話であることを、願う……。


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