さあ、今日はジューン・ブライドの最後の大安吉日。
神田明神では、一組の夫婦がはじめの一歩を、踏み出していました。
はぁ、じぃ、めぇ、のぉ〜…… いぃ〜……っぽ!
だるまさんが何回転ぼうが、 坊さんが臭い屁をここうが、
始まりは、始まりです。 握った手を離さず、ときに離してしまったとしても傍らから離れず、今の思いを大切にし続けてください。
重松清著「きみの友だち」
ちょっとだけ。 のつもりが止められず、最後まで読み切ってしまいました。 連作短編の形をとったひとつのお話です。 各話全てで、泣きました(笑) 大の大人の男がひとりで、まったくもう、みっともなく……。
ヒロインとその弟とそれぞれの「友だち」の、それぞれの物語。 まだ本当の「友だち」というものが実感としてわかっていないまま「友だち」として互いに関わり合っていた頃。 人生をそれぞれ歩み、過ごし、だからこそ、本当に「友だち」だったとわかる今、ヒロインがその「友だち」のそれぞれの話を打ち明ける。 そしてそれらの話を語るのは、ヒロインの夫となるしがないフリーライター。
物語の最後は、ふたりの結婚式を舞台として締めくくられる。
いや、くくられるのではない。
ヒロインの「友だち」として招かれた彼らだけではなく、これからも出会ってゆくだろう、もしくは既に出会っているかもしれない「友だち」も含めて、物語は続いてゆくのだろう。
同じクラスだから「友だち」なのではない。 好かれたい、嫌われたくないから「友だち」なのではない。 優しくしたい、されたいから「友だち」なのではない。
だけれども、結局それらの全ては間違いなのでもなく、「友だち」は「友だち」なのである。
この年齢にもなってくると、「友だち」ということばの使い方が、ある意味難しくなってくる。
同期、同僚、知人、仲間……。
表現の幅が姑息にも増えてしまっている。 そんなことを考えてるうちは、ほんまの「友だち」ちうもんをわかっとらん証拠じゃけえ。
そう諭されそうです(笑)
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