「隙 間」

2008年08月17日(日) エゴと強さと小さく無限の未来と、教え教わり学ぶ

 ドキュメンタリー番組の、乳児院の日常を取材したものを観た。

 乳児院……。
 育児放棄された、主に一歳未満の乳児を養育する施設。

 暴行を受けて若すぎる母親となり、やむなく預ける場合もある。

 乳児院に入所していた子どもは、その後、親や親族に引き取られたり、養子縁組で里親に引き取られるが、そうできない場合は児童養護施設へと移ることになる。

 預けた後、やはりどうしても引き取れない親もいる。
 面会にすらこなくなる親も、いる。

 子どものために、と里親に出すことを選ぼうとしても、引き取ることもしない(できないのかもしれないが)のに、里子に出すことを拒む親が多いのだという。

 つまり、宙ぶらりんのままで、直接的な愛情を受ける機会を取り上げられたまま、過ごさなくてはならない。

 言い分も、わからなくは、ない……。

 里子に出すということは、我が子ではなくなってしまう、ということだとも言えるのだから。

 施設の院長が言っていた。

「親権は本来、“子どものためにある子どものもの”であるはずなのに、いつからか“親のためのもの”になってしまっている」

 きれいごと、をほざいてみる。

 誰のことを、一番大切に考えてあげるべきなのだろうか。
 そのための強さを……物理的、経済的、に限ったものではなく、こころの強さを持たなければ、単なるエゴにしか過ぎないのだ。

 と……。

 話は変わり。

 人に何かを教えること。
 何かを人から教わること。
 そして、学ぶ、ということ。

 この三つは、考えてみるとなかなか難しい。

 最初は右も左もわからぬところから教わりはじめる。
 右や左がわかるようになり、そして自分が右に行きたいのか左に行きたいのかを判断できるようになる。
 右に行くとどうなって、左だとどうなるのか。
 右に行くにはどうすればよくて、左ならどうすればよいのか。

 それを導いたり、左右だけではない選択肢を気づかせるのが「教える」ということ。

 教える者は、教わる者が右に行きたいのか左に行きたいのか、それともそれらとも違う方へ行きたいのかを、お互いが理解し合える「共通言語」をもって会話をしなければならない。

「ここは右に行きます」
「(理由はわからんが)右ですね。わかりました」

 では、会話ではない。

 右と言われたとき、

 ああなるほど、そういう理由で右なのか。

 と理解したときに、初めてそれは会話として成立したことになる。

 会話をするためには、教わる者は学ばねばならない。
 会話するために必要な「共通言語」を。

 共通言語が見当たらない、わからないのであれば、そのことも含めて「会話」しようと試みなければならない。
 そうしてみて、やっと「もしかしたらこのことを言ってるのかも」と教える者が「共通言語」や右か左かを導こうとしてくれるようになれる。

 それをせずに、「教えようとしてくれない」と不満をこぼすのは、もし、自分がもう一歩先に進みたいと思っているのなら、間違いだろう。

 欲しいものを言わずに、ただ「欲しいからください」と言っても、いったい何をあげればいいのかわからず、見当違いなものをあげることしかできないし、それが誤りを導くかもしれないと思ったときは、何もあげることすらできなくなる。

「何がわからないかがわかってないのじゃない?」

 会話できていなさそうなとき、そう聞いてみることにしている。

 同じように、

「何がわからないかがわかってません」

 と、逆に打ち明けるようにもしている。

 ただし、その「何が」が何なのかをなるべく掴むようにしてからだが。

 試験問題の過去問回答を丸暗記だけして試験に落ちて、なぜ落ちたのかわからない、と。
 テキストひっくり返して勉強して、実際の「会話」にふれて、そうしなくては受かるはずがない。

「教えてくれていないのだから、わかるはずがない」

 何も言わずとも簡単に答えを他人からもらうのが当たり前のことだと勘違いしている風潮が、目に付く。

 腹が立つ。

 そして、ときに自分もそのうちの一人になっていることがあるのにも、ムカつく。

 だって人間だもの。

 だなんて言葉は、いらない。

 教える者。
 教わる者。
 学ぶ者。

 三者は一者。

 であるべきなのだろうことを、忘れてはならない。


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