川上弘美著「ざらざら」
様々なカタチや関係の恋愛、恋心を選り集めた二十三の短編集。
川上弘美の世界は、いごこちが、いい。
現実のそこかしこに、現実的でないものが手を振り声を掛けてくる。
しかし、「だったらなにさ」と、文句をつけようとする現実に向かってすずやかに、そよ風が吹いたかのようにさらりと答える。
「いえ。なんでもありませんでした」
とそちらが間違ってましたと頭を下げてしまいそうなほど、それらが存在しているのである。
だからといって、しつこくまとわりついたりなどしない。
頃合いを図ってか図らないでか、さっとそれらは去ってしまうのである。
これはつまり、本作品に語られる「恋」たちと通ずるのである。
帰り道の夜の公園で踏ん付けた蛇が、翌日、きれいな女の姿になって、踏ん付けた女の部屋でさも昔からのように同居し暮らしはじめたり、アパートの隣人の熊と淡い恋をし、「冬眠前の季節になると、万が一であなたを食べようとしてしまうかもしれません」「いいよ、ひとかじりくらいなら」「女の子がそんなことを言ってはいけません。万が一は、万が一もおこらないようにするつもりですが」とやたら紳士的な熊だったりする。
どう考えても理不尽極まりないのだが、なぜかそれを受け入れてしまうのである。
本作品に収められている物語は、前述のような理不尽なものは現れない。
しかし、様々なカタチの「恋」が十分に、それらを満足させてくれるのである。
年の差、異性同性、不倫、とにかく、それぞれの、一見理不尽な恋が、ポッと雨後のタケノコならぬえのき茸のように生えてくるのである。
好きかもしれない。 好きにちがいない。 いいや、大好きだ。
そこに理由などをくどくど語らず、ああ好きなんだ、と納得させられて、そのまま読んでゆく。
ゆるいのだか、ぬるいのだか、わからない。
わからないのだが、癖になる。
この不可思議な温度の世界は、秀逸、である。
物語のなかにあるもの、そして物語自体にも、「角」がない。 角がないから、ころころしている。 ころころしているから、不安定そうなたたずまいで、そこかしこに点在している。
触れてみると、ビー玉のように、つるりとして見えるが実は「ざらざら」していたりする。
つるりと手にもつかないものではなく、そんなわずかに「ざらざら」したものこそが、我々の生きる日常でもある。
久しぶりの川上作品だが、まだまだ楽しみにしている文庫化されていない長編作品がある。
早くそれがかなうのを、待っている。
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