現実味が、わかなかった。
なにせ、打合せのために五時起きし、嵐のような午前中を送り。
ようやく落ち着いた午後であった。
「古墳さん。縦に揺れてますよね」 「んあ。やっぱり縦に、だよね」
建築をしているものら皆が、それぞれで顔を見合わせる。
地上二十数階のオフィスである。
わ、わ、わ。
うちのビル、免震だっけ? いや、制震じゃなかった?
三分ほど揺れ続け、やがてそれが宮城県三陸沖を震源とする大地震の余波であったことを知る。
館内放送がやがて流れたのである。
エレベーターは全てストップしています。 業務を停止して、所内に待機していてください。
被害はゼロ。 外に出ると危険です。 ビル内の方が安全です。
マグニチュードは八.八に修正されたが、それらの被害状況を、社内の至るところで、ワンセグで、インターネットで、会議室のテレビで、知ってゆく。
窓の向こうに、テレコムセンターの黒煙が、見えた。
「なになにとかれこれの母ですが。 はい、電車が全部止まっていて。 迎えにはまだゆけないのですが」 「もしもし、あれ、繋がってますか?」 「それ、一般回線? 一般回線にかけなよ」
少しずつ、安否の連絡を取ろうとする声が聞こえはじめる。
ゆらゆらと、まだゆっくりと揺れている。
制震構造の高層ビルは、揺れをゆっくりと吸収し、逃がす。
「ああ、なんか酔ってきた」 「俺もなんか気持ち悪い。釣り船から丘に上がったときみたいに、なんかゆらゆらしてるみたいな」
代休をとっていた大分県からメールがきた。
「こっちは大丈夫ですが、そちらはどんな感じですか?」
「EV全部停止。防火扉も開いて、貴重な姿を見られてる。 EVホール全部のガラスのガスケットが外れてて、びろんと垂れ下がってる。 これには驚いた(汗)」
と返す。
やがて引っ越した先の我が本社ビルにいる馬場さんからもメールがくる。
「この後の対応方針が、まだ何も社長からないんだけど。 ちび(子どもさん)たちも心配だし」
電車が止まっていて身動きできない。 ここではないビルとはいえ、ヘタに外に出ると連絡がつかなくなる上に混乱に巻き込まれたり、また危険でもある。
ああ、しかし。
「子どもを迎えにゆけるのは、親だけ、なんだから。 自分から社長に言ってみ?」
と、返しておく。
さあ、ビルのカーテンウォール(サッシュ)は、相変わらず、ミシミシ、鳴いている。
隣の楕円形した高層ビルは、ねじられながら、ゆらゆら揺れていた。
余震は度々、続いている。
「こりゃあ、明日から東北へ行け、て皆に通達出るかもね」
設計部の上司である利休さんが、隣の誰かにこぼす。
「ボランティア、ですか?」
誰かが答える。 違う。 被害調査で、に決まっている。
案の定、利休さんが誰かにそう答える。
「もちろん、災害復旧のボランティアにゆくのもいいけど。 自分たちもそれどころじゃないでしょ」
品川駅港南口前の広場には、沢山の人だかりが。 周りのビルからも、避難して外に出てきたひとたちが。
バスやタクシーはすでに何時間待つのかわからない様子であった。
「レンタカーの空き、ありませんか?」
電話の声が、聞こえた。 なるほど。 だがしかし。
「トラックまで一台もないそうです」 「トラックぅ? そりゃあ道路交通法にひっかかるだろぅ」 「シートかぶって、支援物資のふりすれば……て、駄目ですね」
徐々に、建物のすぐ外である周りの世界もただ事ではないことになっている、と実感しはじめたひとらが、ここにきてさらに増えてはじめる。
館内放送が、逐一、内外の状況を伝えてはくれていたのである。
「JRが、本日中は運休することを伝えました」
潔い判断。 皆で何故だか喝采する。
「毛布、耐寒用のアルミシートを用意しました。 人数を調整して、ご利用ください」
そういえばさ、と斜向かいの修造さんが、言う。
「誰々が今日、建材展に行くって行ってたけど、無事なんかな?」
デズニーの駐車場だかが水没する動画やニュースをチェックした後であった。
会場は国際展示場。 埋め立てバリバリの地である。 液状化も、ありうる。
そういえば、その誰々とはちがうが、寺子屋も建材展にゆくとか言っていた。
「めっちゃ揺れて、展示会も中止になった」
と残念そうな返事が返ってきた。 とりあえず歩いて帰る、とも。
わたしもそらで、品川から家までの道のりを試算する。
とんとんである。
歩いて帰るのは、別段、抵抗はない。
かつて、池袋駅から東京駅まで、徒歩で行った経験がある。
二時間半程度だった。
東西の次は、南北、である。
微妙に中心をよけてはいるが、それはそれである。
「じゃあ、わたしは歩いて帰ります」
隣席の古墳さんらに、宣言する。 時刻は七時を指そうとしていた。
「二十階下りてくのん?」
階段でまず、下りなければならない。 ましてその先、家までゆけるの?
そんな顔で見上げてくる。
「陸続きですから、大丈夫です」
親指を立てて返す。
階段を下りてゆくと、帰宅を諦めたひとらが食事の買い出しなどから帰ってきた姿と何度もすれ違う。
二十階分、である。 皆、キツいわ、しんどいわ、とこぼしていた。
わたしはそれを聞きながら、帰り道を考えてみる。
品川からまずは田町。(20分) 田町から東京タワーに真っ直ぐ向かって芝公園。(30分) 芝公園からまた真っ直ぐ行って日比谷公園。(30〜40分) 日比谷公園からまた真っ直ぐ行って神田。(30分) 神田からすぐに秋葉原で、上野、根津。(40分)
だいたい上記のような二時間半くらいだろう。
なんせ、それぞれの道筋を、わたしは実際に歩いたことがある。
大した距離じゃあない。
品川駅構内を抜けて、わたしはまず、田町経由で東京タワーを目指す。
「改札内はシャッターを降ろして閉鎖します。 改札は閉鎖します。 列車は運行しておりません」
アナウンス通り改札はシャッターが降りていた。
バスロータリーは長蛇の列すぎて、どこが尻尾だかわからないほどで。
「港区に勤務、お住まいの方々は……に、……で、……下さい」
安否の報告か何やらの窓口案内のようなものが、スピーカーからひび割れて聞こえてくる。
えい。と歩きだす。
歩行者が車道の端に溢れて歩いている。 車はもはや慢性的な渋滞に近く、
「緊急時に車は使ってはならない」
というまさにそれを実感する。
わたしがゆく方向は本流とは逆方向の少数派で、一列でしか進めない。 しかし、早歩きでゆける。
すれ違う方々は、ヘルメット、地図を手にしている姿が目立つ。
都内の甘木ビルであった外壁崩落のニュース映像が、脳裏に浮かぶ。
大丈夫。
根拠が無い自信が溢れだしている。
コンビニに入り、道すがらの補給用に、お茶とプリングルス(ポテチ)を買う。
おにぎりも、 パンも、 弁当ももちろん、
棚は空っぽだったのである。 だから、やむを得ない。
プリングルスの筒を抱え、バリボリ鳴らせて歩く姿に、緊張感もくそもない。
そのせいでか。
「あのぅ、すみません」
初老の男性が、わたしに話し掛けてきた。
品川の駅は、こちらでよいのでしょうか?
二十分ばかり、わたしは歩いてきた。
「皆の後についていって、だいたい、三十分くらいかかると思いますが。 左側にあります」
ああ、そうですか。ありがとうございます。
ペコリと頭を下げられ、わたしは恐縮する。
凄いひとになってますから、お気をつけて。
またペコリと頭を下げられる。
するとまた、
「すみません」
と、後ろから声をかけられる。
またまた、おじさん、であった。
どうせなら、うら若き女性が声をかけてきてはくれないのか。
「恵比寿からずっと、歩いてきてるんですが」
田町駅は、まだでしょうか?
わたしはここで左に折れて、まさに東京タワーに向かうところだった。
「もう少しまっすぐゆけば、右側にあります。たぶん、十分くらいです」
そうですか。 ありがとうございます。
ありがたいことなど、一切していない。
わたしは、バリボリとチップスを噛み砕く。
向こうに、光の矢印が、道を指し示している。
東京タワーである。
先端のアンテナ部がねじ曲がった、というニュース画像を見た。
それは暗さと逆光で確認することが出来ない。 足下を通り過ぎながら、見上げてみる。
すると。
矢印に寄り添うように、月が穏やかに、浮かんでいた。
さあ、すぐに愛宕山、である。
ここは、
「出世の階段」
で有名な、急勾配の石段がそびえ立っている。
そう、まさに「そびえ立って」いるのである。 さすがに夜闇の中、そんなところに近づく者の姿はない。
ボリボリとチップスを砕き、ゴクリとお茶で咽喉を湿らせる。
左手に国会議事堂、霞ヶ関である。
日比谷公会堂、日比谷公園から、ふと有楽町側に道をずらす。
東京タワーを過ぎたあたりからそこまで、人の流れは少なくなっていたが、有楽町側にずらしたことで、また逆流状態になる。
しかしやがて丸の内。 早くに勤め人らは帰路についていたのか、さほどではなかった。
しかしよく見ると、ビルのアトリウムに、寒さをしのぐためにか、人々らの姿が見られた。
高速バスターミナルは、もちろんひとがごった返していた。
やがてすぐに神田須田町。
そして秋葉原は万世橋。
前鉄道博物館があったところである。
このあたりになると、普段のと区別がつかない人波になっている。
しかし、頭や手にはヘルメットが。
つい先日ひと話題になった防災グッズや防災マップが、皮肉にも役立ってしまっているようだ。
上野までくると、もう普段の夜、と錯覚する。
チェーン店が臨時休業しているのを見て、ああそうか、と思うくらいであった。
我が街谷中は、古い街並み、木造建屋や住宅が軒を支え合うように密集する街である。
街は、無事だろうか。
わたしが昼間いたのは、立派な高層ビルである。 普通の住宅がどれだけ揺れたかが、わからない。
父に連絡したときには、引き出しから棚から物が飛び出したり倒れたり大変だった、ということだった。
街は、どうやら大きなところで大丈夫だったようである。
しかし、外壁が崩落している家や、瓦が落下した家の姿が一部で見られた。
そして、我が家は玄関を開けてみて、驚いた。
「なんじゃこりゃあっ!?」
松田優作ではない。
文庫がみっしり詰まった本棚は、みっしり加減が幸いしたのか被害はなかった。
が。
台所の流し周りに並べ立てていた調味料の棚が、一切合切、崩れ落ちていた。
大した調味料を揃えているわけではない。 しかし、醤油差しや酢やラー油や中華出汁の素「味覇」らが、見事に散乱していた。
さらに。
テレビは後ろに倒れて、重くはない棚の上のものらが崩落していた。
棚自体が、十数センチほど移動していた。
まるで小人たちが勝手に模様替えをしようとして、
「邪魔なものは、ポイ」 「重っ。やっぱり止めようぜっ」 「止めよう、止めよう」 「腹立つから、こいつらも、ポーイ」
と、散々、蹴り散らかして帰っていったかのようだった。
ご近所の寺子屋から有明から、無事完歩して帰宅をすました連絡をすでにもらっていたので、こちらも現状を伝える。
顔見知りがあまりない地でのいざというときに、近き知り合いがいるのは、気が楽になるのに役立ってくれるだろう。
|