朝、いつも通りに目が覚める。
テレビは原発関連のニュースで全て塞がっていた。
ついつい見入ってしまう。
電力依存生活をしつつも、原子力には不快さを抱えているという矛盾するわたしである。
街は、普通の日常を取り戻しているように見える。
しかし。
テレビ画面と、鉄道の運休、運転見合わせの知らせだけは、非常時を突き付けてくる。
気付くと昼を大きく過ぎていた。
洗濯をしておかなければ。
思い出して、洗濯機を回しはじめる。 着替えも何も、一日分しか、ない。
買い物もしておかなければ、とそこで、寺子屋からメールが来ていた。
「赤札堂。カップ麺、パン、水、売り切れてる」
しまった。 水やカップ麺は昨夜から予想はしていたが、そうかパンまでもか。
おそらく、いや確実に、食材や生活消耗品のすべてが、高騰するだろう。
我が身を、我が家族を、我が子らを優先するために買い占めようとする気持ちは、当然であり、仕方のないことである。
勿論、流通の上流で、配送すべき優先順位は確保されているだろうが、それだけでは足りないことは、火を見るより明らかである。
買い占め、やがて余分だと気付いたとき。
できれば早いうちに被災地支援に預けるなり、無駄にならないようにしたい。
わたしが寝ている間にも、何度も大きな余震が襲っていたらしい、と知った。
わたしは一度も、起きなかった。
どうやら。 わたしは寝たまま寝たきりになる心配があるようだ。 それはそれで幸せなことなのかもしれない。 しかし、それでも寝覚めはよろしくはない。
土日は休薬だと決めていても、今はそんなことをいっていられない。
万が一の準備よりも、今日明日、一週間分の買い物を。
しかし、目ぼしい主食材は、ほとんど売り切れである。
「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」
一般的に、世間で誤解を生んでいるこの王妃の迷台詞。
彼女が指している「お菓子」とは、甘く豪勢なスイーツの類いではない。
彼女の祖国で食べ親しまれていたパンケーキのようなもので、当時小麦やらの純粋な穀物粉が手に入らないなら、他に手に入りやすい別の穀物粉を混ぜて焼いたそれならば、少しでも庶民に手が出せる。
それが、後々の彼女を印象を痛烈に面白可笑しく伝えるために意訳され、伝えられてしまったらしい。
それに倣おう。
代わりになるものならば、パンでなくともよい。
小麦粉なら百円ショップでも、十分きちんとしたものが手に入る。
お好み焼きなり、チヂミなり、とりあえず焼けば生地になる。
水だって、貯めといた水道水を煮沸するなりすればいい。
カセットコンロは、ある。
大人ひとり。
ホームレスの方たちは、今でもなお、生きて暮らしている。
わたしはあれば、あるものがあることに依存しきってしまう。
ペットボトルに水が八本あれば、八本ともどうにか持って行こう、とするだろう。
靴を履くことも忘れて。
街を歩く分には、至って平常である。
しかし。
予断は許されないはずの状況である。
断層がどうの、というのが今回の地震の原因ならば。
長野といい。 茨城沖といい。
富士山を抜けて房総半島の先まで、要因となりうるものがある。
以前、フジテレビの深夜アニメ枠「ノイタミナ」で放送した「東京マグニチュード〜」を、思い出す。
あの物語は、切なかった。
やられた。
小さな姉弟が、たしか有明から世田谷かどこかの自宅まで、帰る。
その道中が、目が離せない。
レインボーブリッジか何かが、崩落する。 波に救助艇が転覆する。
東京タワーが、倒壊する。 芝公園に避難した人らを巻き込む。
そんな、余震による追い打ちや。
避難所である学校の花壇の花に水をやり続ける老人。 恐怖や不安が少しでも和らげば、と。
とにかく、切ない。 そしてそれが、アニメによる作りものではない、現実に起こったことと、今は思える。
まだ、東京が壊滅的被害を受けるような地震は来ていない。
しかし、近いうちにくる可能性はもはや否めない。
生も死も紙一重である。
その紙一枚の表裏は、誰にも、等しく選べない。
生きる本能に、愛に、力に、かけよう。
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