2011年05月01日(日) |
「わたしを離さないで」「ブルーバレンタイン」「英国王のスピーチ」 |
世間はゴールデンウィークの真っ只中。 しかしわたしにとってはまさに始まりの日である。
毎月一日は、「映画感謝デー」である。 久しぶりのはしごに出かけた。
正直、体力的にはしんどい。 しかし、逆に勢いを切らしてしまわないままならば、なんとかなるだろう。
早速、作品を選びはじめたのであった。 そしてその一作品目。
「わたしを離さないで」
を、TOHOシネマズ・シャンテにて。
イシグロカズオ原作、イギリスの文学賞、ブッカー賞受賞作品を映画化したものである。
外界からは閉ざされた寄宿舎、ヘイルシャルム。
「あなたたちは選ばれた特別な存在」
と厳格に、健康的に過ごしてきた子どもら。 キャシー、ルース、そしてトミーの三人は「特別な存在」のひとりとして、その意味を受け入れつつも互いに恋をし、全うしてゆく。
原作を何度も手に取ろうとしていたが、何故か読もうとまでは思わなかった。 原作だったらならば、もっと重みのある読みごたえのある作品だったのだろうか。
「特別な存在」とは、臓器提供者として生まれ育てられた存在のことである。
作中で「オリジナル」「コピー」という言葉で、彼ら自身が会話をしている。
つまり、己の存在意義を幼い頃から理解させられて生き続けているのである。
年代が1960〜70年代後半からとされている。 それがクローンであるはずがないので、いわゆる第三者との対外受精による命の創造ということになるのかもしれない。
彼らは、
「提供」を三回もすればそこで自分は「終了」する。 最初の一回で「終了」するやつだって珍しくない。
と、サラリと言う。 臓器提供を一度するだけでも、身体と勿論、命に、途方も無い負担がかかる。
三回提供して、まだ大丈夫だったらどうなるか知ってる? 回復治療もされないまま、ひたすら提供するのよ。
三度目の「提供」を前にしたルースが、まだ一度も「提供」したことがないキャシーに、聞かせる。
十八歳になると寄宿舎を出て、各地にあった同じような施設から集められた仲間達と、コテージという農場で暮らしはじめる。 そして希望者には、「介護士」として、「提供者」である仲間を支える仕事をしながら、自らの「提供」と「終了」をひたすら待つのである。
キャシーは「介護士」になることを選んだ。 だから、コテージを出た後で各地を回り、離ればなれになっていたルースやトミーと十年ぶりに再会を果たすことができた。
「提供」に猶予がある。 「提供者」同士が真に愛し合っている証明があれば、数年だけ、一緒に暮らすことができる。
そんな噂があった。 それはコテージで他の施設から来た者から聞かされたものだった。
しかもそれは、「ヘイルシャルム」出身者だけがその手続きの仕方を知っているものだ、という噂だった。 ヘイルシャルムだけは、さらに特別、という意識が他の施設にはあったらしい。 しかし、当の出身者たちには初耳だった。
愛し合っている証明。
しかしそれが噂だけではないらしい、オーナーの住所を突き止めた、とルースがキャシーにその住所のメモを託す。
トミーとあなたにすまなかった。 わたしがあなたからトミーを奪って引き裂いてしまった。 遅過ぎたけれど、許して欲しい。
と。 彼らが寄宿舎時代、定期的に絵を描かされ、選ばれた作品はギャラリーに持って行かれていた。
その作品こそが、「猶予」を与えるに相応しい魂の持ち主かを判断するものだったんだ。
トミーは、今さらだけれど、と真剣に描き直した数点とスケッチブックにギッシリ描かれた作品集を手に、キャシーと訪ねてゆく。
残念な言葉だが、「魂を描いた作品」を求めていたわけではない。 あなたたちに「魂」があるのかを試していた。
「猶予」なんか、今までもこれからも、ない。
三度目の「提供」で、ルースは肝臓をごっそり摘出される。 腹部は開かれたまま、手術機器の電源だけは切られてゆき、医師たちは退出してゆく。
開かれたままの彼女の瞳は、何を見ていたのだろうか?
それは、未来や夢などではない。
やっと訪れる「終了」か、まだ続くかもしれない「提供」の運命を、逃げず怯えず、受け入れて向き合っていた瞳のように見えた。
テーマは深刻だが、穏やかなだけで重みのようなもので訴えてくる表現が、わたしには足りなかった。
さて続く二作品目は、
「ブルーバレンタイン」
を、同じくTOHOシネマズ・シャンテにて。
ディーンとシンディの夫婦が、出会いから別れるまでを描いた作品。
シンディは美人で成績も優秀で医師を目指していた。 男性関係も多数。 そんなときディーンとも出会い、ひかれ合ったのである。
ディーンはシンディとは正反対で、高校は中退し、幼い頃に母親に別の男と出ていかれた境遇からか、仕事よりも家族こそが、愛するひとと共にいることこそが最優先と、考えていた。
シンディが別の男の子どもを妊娠したとき、中絶手術の土壇場で彼女は中絶を拒んでしまった。
付き添っていたディーンは、
「家族になろう」
シンディを受け止め、夫婦になり、娘のフランキーが生まれ、家族として幸せな日々がはじまる。
子煩悩で一心にシンディを愛し、家族といさえすれば、と満足するだけのディーンの愛に、やがてシンディは重たさだけを感じはじめる。
誰かの夫になること、誰かの父親になること。 俺はそれだけが満たせればいい。 君は俺に何を求めてるんだ?
あなたには、才能があるはずなのに、もったいない。 きちんとした仕事に就いて欲しい。 自分も医師として能力を発揮できる職場で働きたい。
少々変わりつつはあるが、まるで世間の男女の考えが逆転したようなふたりである。
ディーンをみていると、我が身をつまされるような気持ちになってきてしまった。
これは、具体的な何かメッセージがあるわけではない。
が。
無性に切なくなる。
さて。 トリの作品。
「英国王のスピーチ」
またまた、TOHOシネマズ・シャンテにて。
これは、有無を言わせない。
観て損はない。
吃音でまともにスピーチが出来ない弟が、兄が一般の女性に血迷い恋にはまり、
結婚するために、王位を退位する!
と。
スピーチが出来ず、とても王位につくなど、と思っていたはずが、ジョージ六世として即位することになるのである。
時代は第二次大戦が始まろうとしていたその直前。 スピーチの機会、重要性はますます増えてゆく。
ジョージ六世としてのスピーチは、人々にしかと届られるようになるのだろうか。
この時代、はじめは生かラジオの演説がほとんどである。 人前に出たり、話さねば、というところに立つと吃ってしまい、カエルが引きつぶされたような声しか発することができない。
笑い者だが、国民は笑いをこらえるしかない。 本人も、わかっている。 なんとかしたい。
そこで「言語専門家」を名乗るライオネルの登場である。
まさか依頼者が国王の弟、さらにやがて本当に王位につくなどとは知らなかった。
依頼してきたのは、妻、つまり妃殿下であった。
「私があなたからのプロポーズを三回断ったのは、公務だなんだと、自分たちの時間がなくなるからだったの」
それがまさに王妃となってしまったのだが、彼女がとても魅力的なのである。
意地っ張り、短気、癇癪もちな夫を、うまく手の上で、気持ち良く転がす。
「言語専門家」ライオネルの妻も、また魅力的なのである。
「小気味よい」
この妻らがあってこそ、うだつのあがらぬ男たちが引き立つ。
これはやはり話題になっただけある。
素晴らしい作品。
うかつにもわたしが、ジワリと涙してしまった場面がある。
今までは「お父様」と、娘ふたりが抱きついていたのが、王位についたスピーチの直後。
「陛下」
と、幼い姉が自ら妹と一緒にお辞儀をさせた場面である。
抱きとめようと両手を広げかけたジョージ六世いやバーティ(家族での呼び名)の淋しげな表情。
愛情を、やはりかたちとして感じたい。 その歯痒さと切なさ。
しかしそのワンシーンの瞬間だけでそうなったのは、わたしだけのようである。
まあ、気にしないことにしよう。
今日は結果的に丸一日、朝から晩までシャンテで過ごしてしまった。
「おシャンティ」な一日である。
勿論、次の上映のつなぎ時間で珈琲屋に出たりはした。 居心地よい店だった。
今度からこの店で過ごそう。
連休というものを、もはや余暇というより、完全に休息としてしか使えないかもしれない。
出来ればせっかくだからと、旅にふらりと出たかったが、それもままならなさそうである。
あらかじめ予約だ手配だとしていなかったことが、よかったのかどうかはわからないが。
予定を立ててその通りに行動するのは、やはり、不安があるわたしである。
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