連休も終わりを目前にして、わたしはひとり、旅に出たのである。
実家に帰ったその足で、果ての地へと。 全てはその地からはじまった。
重力や原子力に縛られるのをやめ、己を解き放とう、と。
そして。
銚子駅よ、わたしは帰ってきた!
十二年前だろうか。 わたしが社会人になったばかりの、初めての仕事でずっとお世話になり、毎月通っていた町があった。
あらため。
波崎町よ、わたしは帰ってきた!
茨城県神栖市波崎町(旧波崎町)。 「かもめのまちづくり協議会」という住民参画のまちづくりのお仕事を手伝わせていただいていた中で、防災道路の整備と換地によってできた小さな敷地に、公園や歩道状空地を住民の皆さんと作らせていただいたのである。
後にわたしが「処女作」を作るきっかけを、この町が与えてくれた。
皆で考えたものが、形になる。
公園の落成式でその「かもめ」を見上げながら、
ならば、もっと個人的、具体的なものを。
と欲を出させてくれたのである。 そうして、やがてわたしは逃げたはずの「建築」に戻ることになったのである。
銚子駅前のバス停を確認する。
変わっていない。
バスがやってきて、運転手にバス停を確認する。
「再整備センターがあったバス停なんですが、「波崎」のバス停でよかったでしょうか?」 「ええっ、十年も前だとわからないなぁ」
けど。
「ちっちゃな公園なら、あるよ」
じゃあそこで降りますから、よろしくお願いします、とバスに揺られてゆく。
乗客は、わたしひとり。
観光地に向かうバスではないのだから、仕方がない。 これも、十二年前とさして変わらぬ光景であった。
「ここでいいんだね?」
バス停に着き、運賃を払って降りようとするわたしに向かって、運転手さんが念を押す。
「ここなんです」
ありがとうございました、と軽快にステップを降りる。
かもめが、出迎えてくれた。
変わらない。 井戸もある。
写真を収めてるわたしを不審に思ったらしいお婆さんが、ゆっくり近づいてくる。
「他の防災道路は、この向こうに行けばよかったんでしたっけ?」 「ええ、そうだけど」
警戒心が緩んだ。 追い打ち。
「Kばたさんは、みなさんお元気でしょうか? 十年振りくらいになるんですが」 Kばたさんとは、地元でプロパンガス屋をやっていて、そのプロパンガスが目の前のお宅でしっかりと使われているのを見ていた。
「元気元気」
ご本人と面識があるかわからないが、わたしに対する警戒心は完全に解いてくれたのであった。
他の公園を回ってみて、子供たちが遊んでいた。
カメラを構えると「ピース」をしてくる。
「普通にしてていいって」 「動いていいの?」 「いいよ。ほら遊んで遊んで」
なんだ普通にしてていいって、と友だちらと再び遊びに没頭しだす。
天気は薄曇りで、やがて堪え切れずにポツポツと雫が落ちはじめた。
「雨、降ってきてますよ!」
幼い男の子の声が、背中の離れたところから聞こえてきた。 気にせずにカメラを構えなおしていると、
「雨が降ってきてますよぉ」
どうやらわたしに教えようとしてくれていたらしい。
おう、降ってきちゃったな。
振り向いて答えると、うん、とうなずいて自分の家に入ってしまった。
この辺りの子らだから、というのは偏見だろうか。 都会の子らは、見知らぬ大人に好意的な声をかけてきたりしないだろう。
ざっと見て回ったあとが、問題だった。
帰りのバスは、三十分後。 タクシーを使うと二千円くらいかかってしまう。 三十分待ってバスで二百四十円か。
結論は明快である。
歩く。
波崎から銚子大橋を渡るのに、歩いて三十分くらいである。
十年振りに、歩いて渡る利根川。
気付くと雨はやみ、うっすらと晴れ間がみえだしていた。 銚子大橋をわたしは一歩また一歩と、渡ったのである。
十年振りの渡河である。
利根川河口なので、なかなか広い。 渡ったところで、ちょうどお昼過ぎである。
渡った先をさらに進み銚子駅前までゆけば、そこで昼飯にするなり、バスなり銚子電鉄なりで移動してしまってその行き先で店を選び昼飯とするだろう。
わたしは違う。
駅前までの道のりを観光地図で眺め、観光地図でいくつか候補にしていた店までを見比べる。
このまま川沿いに折れ曲がれば、店に最短距離。 しかし歩くかもしれない。 しかししかし、駅前まで歩かないと交通手段はなく、着いて時間を待って、などしてるうちに、このまま歩いて店に向かっていれば着いてしまえるかもしれない。
そこでわたしは、迷わない。
即、川沿いを歩く。 歩いて、利根川の遥か向こう岸を見ると、波崎の歩き始めたところを過ぎていた。
さらにもうちょい先まで歩くと、目当ての店に到着。
「丼ぶり・定食屋 久六」
昼の二時頃で、通常だったらまだまだ店内は客でびっしりだろう時間である。
しかし。
東日本大震災で、隣の旭地区が大きく被害地区として報道されたり、原発の魚介類の放射能汚染などが騒がれたり、さらにはまだまだ余震が予断を許さないなどとの風評があった。
そのせいで、例年の三分の一から半分程度しか、銚子に観光客が訪れていないそうである。
そんな様子だから、店内はわたし以外には先客が一人だけであった。
「金目ヅケ丼」を頼む。
お上さんが、とても親切で丁寧で、色々な話を聞かせていただいた。
店の前はもう利根川の河口というより海である。 駅前の土産物屋の女将さんと話をしたときに、市役所の手前まで、床下浸水になったりしたらしい、と聞いてあった。
「うちも床下で済みました」
避難勧告が出てて、帰ってきたら、座敷席の下まで泥や砂でいっぱいだったらしい。
半月かけて手入れし直し店を開けても、客が来ない。 来なくても、何もしないよりまし、と店を開けることにしたらしい。
大丈夫でしたか、という常連のお客さんからの安否を問う声や、茨城県は東海村からのお客さんが「風評被害の苦しさはよくわかります」との励ましの声、それらにたいへん救われました。
久六の女将さんは深く感謝されていた。
津波の被害は、押し寄せるものよりも、利根川河口から引き上げる波が押し寄せる波に阻まれて溢れかえるようなものだったらしいですよ。 だけど、港は全滅に近くて。
道路脇に打ち上げられたままの小型船も途中に見られた。
「金目鯛も、一昨日やっとお客様にお出しできるようなのが入ってくるようになって」
金目を目当てにお越しいただいてるのに、お出し出来なくて申し訳なかったんですよ、と。
「しかも一昨日、TBSさんで銚子を紹介していただいて、それを観たお客様が昨日たくさんおいでいただいて」
本当によかったです。それまでは「マグロ」で代わりに出させてもらってたので。
お話している最中も度々電話で、「営業しております。ありがとうございます」との問合せに答えられていた。
マグロなどの遠洋ものならば、漁港が復活すれば手に入る。 しかし、鯛などの近海ものはそうはゆかないらしい。
どうやらわたしは、とても運がよかったらしい。
息子さんらが修学旅行で上野に来るらしく、上野動物園にも当然寄る。
うちの近所である。 徒歩十分である。 しかしそこまでは言わずにおく。
時計は四時を指そうとしていた。
二時間ほど話し込んでいたことになる。 そろそろ次のところを、と女将さんに道を相談してみる。
「バスの時間があいてるので、銚子電鉄の駅に行ったほうが時間が無駄にならないと思いますよ」
バスや銚子電鉄の時刻表とルートマップをある限り出してくれて恐縮してしまったが、一方でわたしの頭は目算で距離を測ってみる。
ポートタワーまで、歩けるんじゃなかろうか。
同じ、いやそれ以上の距離を既に歩いてきている。
しかしそれでも、わたしが休日に、自宅から神保町をまわって飯田橋に行き、そしてまた自宅へ帰る道のりまで至ってない気がする。
バス路線に沿って歩きつつ。
少々殊勝なことを考えながらも、結果的にすべて歩いてしまうだろう予想はつく。
「色々お話を聞かせていただいて、さらに長居までしてしまって本当にすみませんでした」 「駅はどこそこを右にいってくださいね」
はい、ありがとうございました、と頭を下げて暖簾をくぐり出る。
すまぬ女将さん、この足がゆきたいと申すのです。
真っ直ぐにと。
目指すは「ポートタワー」
二、三十分くらいだろうか。 雨に降られやまれしながら、ついに到着。
景色は、曇天。 海と空の境目が、溶けるようになく。
灰色。
展望ラウンジで案内図と時刻表をずらりと並べて作戦会議。
展示館関係は五時六時で閉まってしまう。 時計をみると、四時を少し過ぎたあたりであった。
銚子電鉄の最寄り駅は少し遠い。 といっても徒歩十五分くらいだろうか。 正確な地図ではないから、読み違えることもある。
「すみません」
喫茶カウンターで仕事されていた女子に尋ねてみる。
駅まで何分くらいでしょう。 二十分、お客様なら十五分くらいかもしれないですけど。 けど? 道の目印がわかりづらいかもしれないです。
おっと。 案内図を手にカウンターに席を移す。
道路地図がない。
観光マップでは距離感があやし過ぎる。 しかしまあ十五分くらいかもというなら信じよう。 ついでに。
「今から行けるところ、どこかありますかね」 「今の時間からだと……」
どこも閉館間近の時間である。
「皆さんもう帰られて、ご飯にしてゆっくり休まれるのかと」
漁師町は朝が早い。 夜も早いのである。
そうか、晩飯だ。
「お勧めの店は、ありませんか」
グルメマップのこの店あの店と、卒のない紹介をしてもらったが、わたしが聞きたいのはそうではない。
「個人的に特定のお店を紹介すると不公平になってしまうので」
それにわたし、まだ仕事はじめてそんなに経ってないんです。
地元が外川で銚子の高校を出たばかりだという。
十代である。 ダブルスコアである。 わたしはうなだれる。
父親が漁師で、割烹や小料理屋や居酒屋なら、父親の感想を言える。
「ちょっと高かったり立派だったりするお店は、やっぱり行ったことがなくって。 わたしはサイゼ(リア)やマックとかばかり行ってたので」
と、初い顔を浮かべる。
あ、でも。
「高校の帰りとか、友だちと行ったりとかしたお店もありますよ」
そう。 そういう店を。 紹介するんじゃなくて、思い出を話すなら、先輩や館長にも怒られないでしょう。
焼き肉なら、宝島ですかね、よく同窓会で行きます。 ひとり焼き肉は、辛いな。 とんかつならどこそこで、ここはわたしはちゃんぽんが好きでした。美味しかったんですよ、ホント。
やいのやいの、一時間以上、店を、いやお店にまつわる思い出話を聞かせてもらっていた。
いくら他にお客が少ないとはいえ、長く付き合わせてしまって申し訳ない。
今夜と明日の店は目星をつけられた。 あとは時間と場所のやりくりをつけるだけである。
そして初の「銚子電鉄」に乗り、ホテルがある銚子駅へと向かったのである。
波崎の辺りからずっと、携帯電話の銚子がよくなかった。
まあ、電波が弱いだけだろう、と思っていたのである。 地方やましてや海辺の突端の地域などではままあることである。
ホテルの部屋でパソコンを繋いで明日行く候補の店の地図を確認しながら、やはり携帯が、アンテナはしっかり立っているのに繋がらないのを見て見ぬふりをする。
明日は、わたしにとって実は未踏の地である犬吠埼である。
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