「隙 間」

2011年05月22日(日) 「風花」と糧

川上弘美著「風花」

のゆりは夫の卓哉が浮気をしていることを、その浮気相手から知らされる。

結婚七年。
子どもはなし。

知らされても、のゆりはどうしたらよいのかわからない。
卓哉に詰め寄ればよいのだろうか。

それは、浮気相手と別れてください、なのか。
それとも、わたしと別れてください、なのか。
それとも、わたしのことを好きではなくなってしまったのか、なのか。

「結婚をしなければ、もっとちゃんと好きになっていたのに」

文庫の帯に書かれていた言葉。

読み終えて、しみじみと胸に染み渡ってゆく。

のゆりの感情は、波立たない。
日常のすべてが、まるでぼんやりと何かに包まれているかのように、現実感として捕らえられていないかのように、淡々と描かれてゆく。

ずっと無言電話だった浮気相手からの電話が、「離婚してください」とはじめて無言が破られた時に、「やっと無言から解放されることができたんだ」と安心していたりする。

卓哉を「卓ちゃん」とずっと呼び続けていたのに、「そう呼ばれるのは、あまり好きじゃいんだ」と突然、今になって卓哉に打ち明けられたりする。

自分にとってずっと「卓ちゃん」だった相手が、急にそうではない人になってしまう。

ずっと夜は帰ってこない日が何ヵ月も続いていて、食卓で話をしていても、自分の話し声は卓哉に届く前に、テーブルの上の空気の中に吸い込まれて消えてしまう。

ふわふわと頼りなさげではかなげなのゆりだが、彼女は、それでも卓哉のことが好きだった、のだろう。

読んでいると、完全に瀬戸際の危機感溢れる状態なのに、ゆうらりと時間が過ぎてゆく。
だからこそ、読み手の胸の内で、それがむくむくと大きく膨らみ形どられてゆく。

向き合うことを、深く考えてみよう。

久しぶりの川上作品で、これはまた不思議な魅力がある作品だった。

読んでいて、無性に咽喉が渇くような、感覚。



ときにわたしは、薄情者、または非情な者の部類に属するのだろうかと思う時がある。

どんなことがあっても、冷蔵庫の牛乳がなくなれば赤札堂へ買いにゆき、なければ湯島のハナマサまでのこのこと足を伸ばす。

そうしながら、小説のテーマやヒントに、それがいつの間にかなっていたりする。

これはどこ向けか、それなら肉付けをどうしようかなどとメモを開き、不謹慎なほどドキドキしていたりするのである。

そういう意味では、人が満たされて喜びを得て済ませるのに対して、わたしは満たされないことでさえ、満たすことへと繋がってゆく。

それは誰にでも出来ることでもあるが、実際にやるかやらないかでいえば、誰もが躊躇ったりしてしまう。

よいか悪いかで言えば、きっと「たちが悪い」のだろう。

人は、笑ったり泣いたり叫んだり、食べたり飲んだり歌ったりして鬱憤を晴らす。
しかしわたしは、それでは満足できない。

そんなことで晴らしきってしまってはならない。
それでは何のためにそれを味わったというのか。

「ある」ということで、その意味を知る。
しかし、「ない」ことで、さまざまな「ある」姿やかたちをみることだって出来る。

「知らない」で書いたものには重みがないと思う、と言われたことがある。
「知る」ことで、逆に書けなくなってしまうこともある。

事実を描くドキュメンタリーを書きたいのではないのではないのである。

すべてを糧に。

消化するには多少の時間や助けが要るとは思うが。


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