川上弘美著「風花」
のゆりは夫の卓哉が浮気をしていることを、その浮気相手から知らされる。
結婚七年。 子どもはなし。
知らされても、のゆりはどうしたらよいのかわからない。 卓哉に詰め寄ればよいのだろうか。
それは、浮気相手と別れてください、なのか。 それとも、わたしと別れてください、なのか。 それとも、わたしのことを好きではなくなってしまったのか、なのか。
「結婚をしなければ、もっとちゃんと好きになっていたのに」
文庫の帯に書かれていた言葉。
読み終えて、しみじみと胸に染み渡ってゆく。
のゆりの感情は、波立たない。 日常のすべてが、まるでぼんやりと何かに包まれているかのように、現実感として捕らえられていないかのように、淡々と描かれてゆく。
ずっと無言電話だった浮気相手からの電話が、「離婚してください」とはじめて無言が破られた時に、「やっと無言から解放されることができたんだ」と安心していたりする。
卓哉を「卓ちゃん」とずっと呼び続けていたのに、「そう呼ばれるのは、あまり好きじゃいんだ」と突然、今になって卓哉に打ち明けられたりする。
自分にとってずっと「卓ちゃん」だった相手が、急にそうではない人になってしまう。
ずっと夜は帰ってこない日が何ヵ月も続いていて、食卓で話をしていても、自分の話し声は卓哉に届く前に、テーブルの上の空気の中に吸い込まれて消えてしまう。
ふわふわと頼りなさげではかなげなのゆりだが、彼女は、それでも卓哉のことが好きだった、のだろう。
読んでいると、完全に瀬戸際の危機感溢れる状態なのに、ゆうらりと時間が過ぎてゆく。 だからこそ、読み手の胸の内で、それがむくむくと大きく膨らみ形どられてゆく。
向き合うことを、深く考えてみよう。
久しぶりの川上作品で、これはまた不思議な魅力がある作品だった。
読んでいて、無性に咽喉が渇くような、感覚。
ときにわたしは、薄情者、または非情な者の部類に属するのだろうかと思う時がある。
どんなことがあっても、冷蔵庫の牛乳がなくなれば赤札堂へ買いにゆき、なければ湯島のハナマサまでのこのこと足を伸ばす。
そうしながら、小説のテーマやヒントに、それがいつの間にかなっていたりする。
これはどこ向けか、それなら肉付けをどうしようかなどとメモを開き、不謹慎なほどドキドキしていたりするのである。
そういう意味では、人が満たされて喜びを得て済ませるのに対して、わたしは満たされないことでさえ、満たすことへと繋がってゆく。
それは誰にでも出来ることでもあるが、実際にやるかやらないかでいえば、誰もが躊躇ったりしてしまう。
よいか悪いかで言えば、きっと「たちが悪い」のだろう。
人は、笑ったり泣いたり叫んだり、食べたり飲んだり歌ったりして鬱憤を晴らす。 しかしわたしは、それでは満足できない。
そんなことで晴らしきってしまってはならない。 それでは何のためにそれを味わったというのか。
「ある」ということで、その意味を知る。 しかし、「ない」ことで、さまざまな「ある」姿やかたちをみることだって出来る。
「知らない」で書いたものには重みがないと思う、と言われたことがある。 「知る」ことで、逆に書けなくなってしまうこともある。
事実を描くドキュメンタリーを書きたいのではないのではないのである。
すべてを糧に。
消化するには多少の時間や助けが要るとは思うが。
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