2011年05月25日(水) |
「恋文の技術」の極意 |
森見登美彦著「恋文の技術」
オモチロイ!
森見ワールドの「たちのワルさ」がここに、これでもかっ、と極まっている。
告白も出来ず、屁理屈妄言詭弁をこねくり回し続ける大学院生が、能登の研究所へと送られてしまう。
男は親友、妹、大学の研究室のオソロチイ女先輩、家庭教師の教え子(小学生男子)、そして大学の先輩である森見登美彦氏らと、文通武者修行に、励む。
恋文代筆業をベンチャーで立ち上げませんか、と作家である森見氏にもちかけたりする。
しかし、一向に目指すところの「一発で女をメロメロにする」恋文の書き方が、わからない。
森見氏に「もったいぶらずに教えろ」と脅迫してみたが、氏は一向に教えようとしない。 それどころか、締切に間に合わない、書くことがない、と執筆に関する愚痴ばかりを書いてよこす。
能登と京都を様々な思いが込められた文が往き来する。
抱腹絶倒。
公衆の前で、この書を読んではならない。
わたしのように、いつどこ何どきでも、すっかり竹林にて魂を胡蝶のごとく遊ばせる夢をみて、社会の目を忘れることが出来ない限り、お勧めしない。
変態、変質者、カワイソウな人、と衆目に晒されること間違いない。
腹がよじれる。 よじれて半回転して繋がり、終わりのない笑いのメビウスの輪に閉じ込められてしまう。
しかし馬鹿にしてはならない。
森見登美彦氏からの金言迷言が、ちゃあんと、どこまでも上ってゆく坂道の、つまり「くだらない」中にも路傍の石のごとく散りばめられているのである。
おこがましいが、そのひとつを紹介しよう。
どうだろう。 路傍の石のごとく過ぎて、皆さんに紹介すべきものが見当たらない。
いやしかし、「読めば元気の泉湧く」ことは間違いない。
だからといって湧き水をそのままがぶ飲みしてはならない。 アヤチイ菌が○○ブリのごとき生命力で溢れかえっているからである。
ちなみに「○○」に「Sジ」を入れて、国民的アニメ制作スタジオにしてみてはいけない。
検討違いである。 宇宙的偉大な阿呆である。
しかしその前向きさは、嫌いじゃない。
抗いがたい現実社会を前にして、それをなお、
「うむ。やむを得まい!」
にっこりと、そう受け入れてみせる伊吹さんは、惚れてしまわずにいられないだろう。
うじうじと見栄をはりこねくりまわし、一向に本命宛ての恋文を書きあげられずに半年が過ぎてゆく。
そうして書き損じた恋文らが、自らの批評反省点をつけて収められている。
そうして最後の最後に、「恋文の極意」というべき一通が添えられているのである。
なるほど! 目からウロコ、カステラの裏紙である。
書簡集というかたちの作品は、三島由紀夫の「レター教室」でなかなか面白い、と思っていたのである。
「作家ならば挑戦してみたい様式」というのもわかる(しかしわたしはまだ作家ではない)
現代ではメールが手紙に完全にとってかわって跋扈している。 すぐに送れてすぐに返ってくるから、まだろっこしくない。
汚い字を晒して恥をかくこともない。
皆が使っている同じ文字だから、自分の温度も相手の温度も、等しく同じに思える。
しかし手紙は違う。
かかる時間、気持ち、手間暇が、違う。
筆圧の強弱、線の足取り、躊躇い、訂正、追記、シワ、シミ、それを誤魔化そうと足した記号やイラスト。
どつぼにはまってゆくものである。
わたしは稀に見る象形文字の伝承者ではないかと思うほどに、字が汚い。
どう書いても「大人」のきれいな字にならない。
これはあれだ。無理だ。
ガッキー(新垣結衣)が頷いた。
字を書くのが駄目なら、恋文が出せないではないか。
由々しき大問題である。 宇宙的損失である。 四畳半でウンウンと妄想している場合ではない。
しかし妄想の果てにも答えはあるものである。
字を絵だと考えればいい。
ピカソやら岡本太郎やら、いったいなんじゃこりゃ、という画風もある。 芸術的才能をほとばしらせ、いっそ抽象文字を表せばよい。
その前に、恋文を出す相手を竹林にて探し出さねばならない。
梅雨を控え、竹は青々しく背伸びし枝を伸ばしてゆく。 ヤブカの集団発生もオソロチイ。
よし。ひと通りおさまる秋口まで、深謀遠慮な作戦を練りつつ待機するとしよう。
恋文の極意とは、恋文を書こうとしないこと、である。
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