2011年05月31日(火) |
「希望ヶ丘の人びと」 |
重松清著「希望ヶ丘の人びと」
ガンで二年前に亡くなった妻の故郷、いやふるさと「希望ヶ丘」に引っ越し、塾を開いた。
ニュータウンで、駅向こうは工場街でガラは悪くて、交通は中途半端で、どの家も同じ大きさで、似たような形で、道は真っ直ぐで目印になるものはなくて。
かつての「希望」は、やっぱり「かつて」の希望で。
変わり者や落ちこぼれを見下してつまはじくことで、かろうじて自分たちの「希望」を守ろうとしてばかりで。
妻の圭子が「ふるさと」と呼んでいたこの街で、中学生の娘と小学生の息子と、そして圭子のかつての親友や同級生や、圭子の初恋の相手だったかもしれないエーちゃんたちと、一緒に生きて行こう。
「希望は世界のどこかに転がってるぜ」
ああもう。
わかっている。
わかっているんだ。
まるっと「重松清」の思うつぼだと。
平凡で何のへんてつもない男親が、自分が知らない頃の妻を知っている同級生らが暮らす街に引っ越す。
子どもたちがお母さんの思い出が詰まった街で、そばに感じて暮らしたい、という「希望」で。
思い込みの勘違いで、自称妻の初恋の男や、阿部(ABE)の「A」から「エーちゃん」と皆に呼ばせ、ハートも矢沢永吉の「エーちゃん」なロックな男、そして彼らの娘や息子が、迷い傷つき傷つけ立ち上がり、それぞれの「希望」に顔を上げる。
先日はニヤニヤうひゃうひゃと、すっかり周囲には気持ち悪いひとと顔をしかめられる有り様だったわたしだが。
今回は真逆。
何か悲しいことを耐えてるのかと、隣席のひとがチラチラ窺うくらいに、ごしごしグジュグジュ、の一歩手前の有り様である。
まったく忙しい。
親父だって親父なりに、子どもだって子どもなりに、社会や学校や、同級生たちや自分と、闘っている。
それぞれとの向き合い方だって、それぞれで違う。
正論や理屈や、頭でっかちの知識じゃなく、ここ(ハート)で動けベイベー、サンキュー、ロケンロール、そしてサムアップ。
である。
奇をてらうでもなく、そのままを。
小手先ではなくハートを、揺るがされることがないように。
知らない誰かが言うことよりも、今お前が目の前で何を感じて、何をすべきか。
正しいことを正しくやることだけなら、正解なだけ。 間違った間違いが、正しいことだってある。
なあに。 誰も傷つかないようにじゃなく、傷つく時は一緒に、てヤツが愛ってヤツだ。 そこんとこ、ヨロシク。
ひとりひとりが、体温がある。 ときにそれは滑稽に思えたり、わざとらしく思えたりするが、その熱さやクサさが、いい。
カッコいいのはウソくさい。 カッコつけは人間くさくて、いい。
こんな物語を、そろそろ、できるだろうか。
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