2011年06月13日(月) |
「愛しの座敷わらし」 |
荻原浩著「愛しの座敷わらし」
と、と、と。 ふわぁ。
振り向いても姿は見えない。 だけど、たしかにそこに、いる。
ような気がする。
急な転勤で東京から田園と山が広がる地方へと引っ越すことになった一家。
痴呆が始まってきたんじゃないかと心配な祖母と、どうやら学校でいじめにあっていたらしい中学生の娘と、ぜんそくでゼエゼエしていたのがまだ最近に思える小学生の息子。
晃一が会社が用意してくれたマンションを勝手に「男のロマン」といって断り決めてきたのは、はるか昔からある古民家だった。
「広いリビング」「家族の顔が見えるダイニングキッチン」が憧れの史子は、確かに広すぎるほどの居間(囲炉裏つき)に、そこに襖でひと続きの、車庫にも使えるような土間に、まあずっと暮らすわけじゃないし、と渋々ながらまんざらでもなし。
ところが。
娘がある晩、ふと手にした手鏡の中に、ちんちくりん頭に結った紺絣の着物姿の子どもが、映った。
と、と、と、と。
遠慮がちに、襖の向こうで足音が聞こえてくる。
ふわぁ。
けん玉やシャボン玉をみて、ぱちくりくりくりっと目を見開いて見つめる子ども。
そりゃあ「座敷ぼっこ(わらし)」だべさ。 あんれ、あんだだちさ「ぼっこ」が見えんのけ。
ご近所のお婆ちゃんが、ほっほっほっと説明してくれる。
ささやかかもしれないが、それでもそれぞれが抱えている悩みや痛み。
隙間や温度差だらけだった家族が、「座敷わらし」がいる家に住むことになっていったいどうなるのか。
荻原浩は、やはり凄い。
「もしも」だが、重松さんが「座敷わらし」を用いた物語を描いたら、きっと胸をえぐるような、全身の酸素を吐き尽くすような深い感動を味わわせてくれるだろう。
しかし荻原浩は、ぜんたいが茶目っ気に溢れている。 ツイ、ツイ、ツツー、と読み進ませながら、キュッ、と締めてくる。
座敷わらしが、本当に、愛らしく描かれている。
しかし。
作中にも書かれ、またご存知の方もいると思うが、「座敷わらし」とは昔の農家で、産まれて間もなく間引かれた子どもの別の姿である、と言われている。
生活に厳しかった農村では、生まれたとて食いぶちが足りない。 家族が生き残るためには、仕方がなかった。
何も知らないまま、言葉も覚えないまま、だから全てに純粋な好奇心を持った姿として、荻原浩は描いている。
「座敷わらしが住む家は幸福を得る」というのは、この「何も得ることが出来なかった」からこそ、得られなかったものを無意識に集め、結果、その家は幸福を得られるとも言われている。
わたしも遠野(岩手県遠野市)で「語り部」の方や民俗研究会の方などからそのようなお話を聞いたことがある。
座敷わらしは「妖怪」という印象が多いが、これを聞くとそうとは言いづらくなる。 「福の神」というのも、またはばかられてしまう。
怖いものではない。 何も知らない無垢な存在、に近い。
だから好奇心が強く、警戒心も強い。 人見知りで、寂しがりやで。 そして欲得やら、よこしまな感情を好まない。
だから子どもにしかその姿が見えない、と言われることもある。 それでもたまに、大人にも見えるときがある。
作中で、晃一と史子、娘と息子そして祖母が、ファミリーレストランに行く。 五人を見渡して店員が、
「六名様ですね」
と声を掛ける。
わたしはいつも、
「一名様ですね」
としか、声を掛けられたことがない。 いやむしろ、何も言わずとも注文の確認をされたりする。
先日「さぼうる」のマスターに入口で、サッと定番の席に案内するよう店員さんに告げられたときはむず痒かった。
久しぶりにまた行きはじめて、まだひと月、三度目くらいだったというのに。
座敷わらしでなく「お二人様ですね」と、さぼうるに迎えられる日はいつ。
あそこで打ち合わせしたりするようにもなりたい。
「愛しの座敷わらし」
ぜひ、読んでみてもらいたい。
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