布団の上に両足を投げ出して、肌掛け一枚を身体に絡ませて。 だけどやがて、夜気が二の腕や大腿の辺りからさわさわと肌に染み込んできて、首から下の全身を、すっぽりとその頼りない肌掛けにくるまって眠る夜。
あともう幾日かで、満月です。
分厚い雲で見えなくとも、その向こうで月はちゃんと満ちていっているのです。
不忍池も、虫の音で涼しさをとりなしてくれています。
吉田修一著「静かな爆弾」
昨日までの「愛しの座敷わらし」に続いて、この「静かな爆弾」もまた好い作品でした。
なんて幸運なのでしょう。
映画「悪人」が、世間で知らぬものがないほどに話題となりました。 その原作者がこの吉田修一さんです。
テレビ局に勤める俊平は、外苑の公園で聴覚障害で音のない世界で暮らす響子と出会います。
ふたりの間でもっぱら交わされる会話は、ペンとメモ帳による筆談です。 そう簡単に手話で伝えあったりは、出来たりしません。
そうしてふたりの言葉がメモ帳やお店の紙ナプキンに書き重ねられて、時間は静かに流れて行きます。
これは「音があることが普通」な世界にいる俊平と、「音がないことが普通」な世界にいる響子との間にあるからこそ、「静か」に流れてゆくのです。
花見で殴り合いの喧嘩が背後で始まっても気付くことができません。 危険を知らせようにも、声だけでは気付かせることも出来ないのです。
はらはらと舞う桜の花びらを見上げたまま微笑んでいた響子を見て、俊平は怖さのようなものを感じてしまったりします。
ふたりはそれでも、言葉を文字を伝えてゆくのです。 とても穏やかで静かな物語のように。
この作品を読むと、言葉というもののあり方を、いやでも考えさせられます。
筆談となると、ダラダラと長文渡し合うわけにはゆきません。 短文で、いや、単語で伝えたいことを交わしてゆくこともあります。
単語は、ときに直接的過ぎたり、足りなさ過ぎたりして、傷付けてしまったり伝わらなかったりします。
最近、わたしは言葉に詰まってしまうことが頻繁にあります。 頭に浮かんだものを言葉や文字にした瞬間、それがまるで嘘のことのように思えてしまうのです。
これは違う、これも違うと繰り返すうちに、それ自体が嘘になってしまい、その内自分の何を信じたらよいのかを見失ってしまうのです。
例えるなら、「の」をひたすら書き並べてみてください。 確かに「の」のはずなのに、それが「の」だと信じられなくなるような感じです。
同じように、相手のことをわかっているつもりでも、自分は本当にわかっているのかという不安を感じたことはありませんか。
そういった「わかっている」つもりのもののあやふやさと愛おしさを、この「静かな爆弾」は気付かせてくれます。
実をいうと、わたしは著者の吉田修一さんを知ったのは、「つむじ風食堂の夜」などの吉田篤弘さんと間違えていたのがきっかけでした。
吉田の名字だけをみて、買った後に別人だと気付いたのです。 わたしの「つもり」の間違いがなかったら、著作「パーク・ライフ」に続いてこの作品を手にする機会もなかったかもしれません。
次は話題になった「悪人」を選ぶかもしれません。 その前に机に横積みになっている方を、先に読んでゆかないといけません。
言葉遣いを変えてみると、それこそ違うわたしが書いているようで不思議な感じがします。 慣れないので、わたしが次に何を言おうとしているのか、自分のことなのに予想がつきませんでした。
どうやらここまでのようです。 「静かな爆弾」に限らず、吉田修一作品はサラリと読みやすく、それでいてなかなか感じさせられてしまいました。 わたしはまだ読んでいないのですが、著者の作品を「悪人」からでも是非読んでみてください。
それではまた。
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