「隙 間」

2011年07月24日(日) 「somewhere」それはきっと

枠からはみ出した生き方を、
自分には真似できない、
と目を細めてみるのは感心と心配からで。
はみ出したくてそうしたものは実はひと握りで、
あるものは成長と共に、
枠が小さくなっていたことに気付かなかっただけだったり。
押し出されてぎゅうぎゅう詰めの背中を前に、
力も術もなく立ち尽くしてしまっていただけだったり。



お盆休みに出掛ける先はなかなか決めきれない。
元来の優柔不断さと、何がというわけではない欲深さが決断を鈍らせてしまうのである。
これでは敬愛する百ケン先生の「阿房列車」のような旅はなかなか出来ないで困ってしまう。

困った挙げ句に、えいや、と指差しで決めてしまうのである。
だから、緻密に行程を組んだらもっと楽しめる有意義な旅になったのに、と帰りの車窓に思うことがままある。

次回はきっと入念に、と決意するが、決意したそばから車窓と共に背後へと流れ去ってしまい忘れてしまう。

「阿房」ならぬ「阿呆列車」は、快速快調環状線で運行中である。

「somewhere」

をギンレイにて。
ソフィア・コッポラ監督の甘木映画祭で金獅子賞を獲得した作品である。
御存じの通り巨匠フランシス・コッポラ監督の御息女であり、数年前には「マリー・アントワネット」で洒落た映像表現で女性から好評だった印象がある。

まるで蜷川幸雄と蜷川美香の父娘のようである。

しかし今回、ソフィア・コッポラは色使いやカット割り等で目をひいたりしていない。

ハリウッドスターであるジョニーの元に離れて暮らす娘のクレオがやってくる。
母親は、いつまでかはわからないがしばらく預かっていて欲しい、と。

ジョニーとクレオの久し振りの親子水入らずの日々がはじまる。
しかしジョニーの今までの暮らしといえば、フェラーリを乗り回し気儘に美女と過ごしたりと自堕落な有り様であった。
そこに十一歳の愛娘との新鮮な、愛しい生活である。

とはいえ、決して悪い父親の姿をさらすようなことがないように気を付けていた。
多少、美女に甘い態度をとりそうになるがそれでもきっちり娘の前では自重していたのである。

だから、苦しくなる。

娘との美しい日々に、自分がどれだけ空っぽな日々を過ごしているか痛感させられてしまうのである。

仕事をしてないわけではない。
新作の発表や記者会見で世界を行き来している。
映画祭で受賞もした。

しかし、どうしてもどこかに出来てしまう「空っぽ」さ。

クレオをサマーキャンプに送り出し、ジョニーは愛車のフェラーリで走り出す。
やがてフェラーリを荒野の路肩に停め棄てて歩き出す。

娘との美しい日々に相応しい自分を取り戻すことに、その道は続いているのだろうか?



正直、前評判ほど素晴らしい作品という印象はなかった。淡々と進み、淡々と終わる。
何か物足りない。
金の獅子が吼えたかもしれないが、わたしはただうむむと唸るだけである。

ソフィア監督の「らしさ」が感じられない。後でポスターや解説をみて気が付いたくらいである。

わたしが気になる監督のもう一作品であるなんたらコネクションというのも、監督の「らしさ」を感じられない作品になっているのだろうかと心配になってしまう。

わたしの心配などもちろん先方が気にするはずがなく、まったく余計なお世話である。
他人の世話を焼いている余裕などないのだが、自分の世話をもて余した挙げ句の余計であるから本心からの心配ではなく、釣りの小銭が財布に入らないからレジ横のなんたら募金の口に差し入れる程度のものである。

ああ。
この口調だとくどくど長たらしく綴りたくなってしまう。
切りがないので、今宵はここまで。

世間はすっかり夏休み。
子どもたちが駆けてゆく声が、開けた窓からあがってくる。

早くしろよっ!
ちょっと待ってよぉうぅ。


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