「隙 間」

2011年07月28日(木) 大森の楽しむ

なくしたときにそれが目立つ痛みになるのだから、手に入れなければいい。
ただし、それが目の前を通り過ぎて遠く見えなくなるまで、目を離さずにじっと見送るように。
手に入れられなかったのではなく、手に入れなかったのだというように。



群青に墨を流し込んだような夜空から、ぽつりと滴が落ちてきた。

ところにより激しい雷雨に気をつけてくださいと言われたような気がしたので、長傘をきちんと朝、持って出てきたのである。
万が一のための折り畳み傘は、常に鞄の底に畳み込まれている。これだけ準備万端、さあいつでもやってこい、というときに限ってやってこないのが世のあゝ無情である。

「お腹は、まだ痛いですか?」

そろそろと心配そうな田丸さんの声が、わたしに訊いてくる。

大森の一室であった。
お腹の痛みというと、腹がくだっていると思われているのではと心配してしまうが、そのことではない。
肋骨の裏に鈍く差し込む痛みのことである。

腰痛にかまけてしばらく口にしていなかったが、じつは抜け目なくしくしくと痛んでいたのである。あまりにも抜け目ないため、普段は見逃してしまいがちなのである。

「腰痛ていうか、坐骨神経痛じゃないの?」

どうやら痛む箇所がずいぶんと下であった説明をするとイ氏が首を捻った。

けっしてそればかりが原因というわけではないのだが、神経という文字がくっつくと何やら精神的な薄弱さのようなものを思い浮かべてしまう。

百ケン先生も然り、また先生の師である夏目漱石先生もまた、神経衰弱と縁があってこられたのである。
そこの仲間入りをする前に、文壇のはしにかかるようになるのが先決である。

「小説は、書けましたか?」

コロコロと毬と戯れるのが何より大好きな茶虎のような目で、田丸さんがわたしに向かってくる。

ノラなら迷わず抱き抱えて帰ってしまっているだろうその様子に、わたしは少しでも長くそれを見ていたい気持ちに襲われそうになってしまったのである。

いやいけない。
百ケン先生のノラではないのである。

「前に書いた作品でもいいので、今度ぜひ読ませてください」

これはなおいっそう恥ずかしくない作品を書くように努めなければならない。
今度持ってきますよ、とお愛想で流してもらうつもりでいったら、「楽しみにしてますから」と受け止められてしまったのである。

むむ。
むむむ。

わたしから「読んでください」と頼んだのではない。しかしせっかく「読ませてください」と興味に好意を添えていただいたのである。

書きかけの日記も梅雨を待っていたら梅雨らしくないうちに明けてしまい、入谷の朝顔市は取り止めですでにもう夏休みである。
待ってばかりではなくそろそろ絞めてしまわなければ、干からびて風化してしまいかねない。

そんな諸々のこともあり改めて思案しつつもイ氏と久し振りに本の話をしていたのである。するとイ氏が、退室しようとしたわたしに「久し振りに本の話ができてよかったよ」と。

そういえばたしかに最近、イ氏とは「人生の岐路」と「腹部の痛み」についてしか話していなかったのである。

本の話といっても、今夜は今読んでいる作品とチェスについて少し話しただけであったが、それでも確かに、イ氏とのいつも通りの会話はずいぶんと久し振りだったのである。

付き合いが長いのもあるが、こうして楽しみにしたりされたりするのは、なかなか得難い貴重な方々であり、今後もよりいっそう、したりされたりの間柄でいたいものである。

まずは早い内に一作。

はじまれば早いもので、はじめるまでが長い。
限られた中でならば、なお一層。
どれか迷う道なら、迷うほどの叉路がない道を。

思うほど複雑じゃあない、と明日の一歩を進められるように。


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