「ありがとうございました」
それじゃあ、と鞄に手を伸ばしたときだった。
パタパタパタ。
軽やかのつま先に、焦りをつっかけたサンダルの足音がわたしを引き留めた。
「竹さん。無事に帰ってきてくださいね」
彼女は真顔だった。 そしてすぐ、にこやかな笑みでそれを覆い隠した。
何かのついでに、ではないことはすぐにわかった。彼女はそのことをわたしに伝えるためだけに、わざわざ出てきてくれた。 ついさっき、イ氏と彼女に「それじゃあ」と挨拶をして部屋を出てきたばかりだったのに、受付の向こうに立った彼女は、イ氏といっしょにいたときとは違う彼女だった。
「そんな大袈裟な。大丈夫です、ちゃんと帰ってきますから」
わたしも、笑顔で返すしかなかった。
「あのう。外国の物騒なとこにでも行くんですか?」
挨拶に割り込まれた受付の女性が、まじまじとわたしと彼女を順繰りにみて尋ねた。
旅に出る前に大森にゆかなければならなかった。それは、二週間に一度の恒例もあったが、処方してもらうだけではなく、何か面白い話が聞けるかもしれないという、ささやかな期待もあったからだった。
「へえっ。そりゃまた大変なところへ行く気になったもんだね」
熊野へ旅にゆくことをイ氏に告げると、心底驚いて気の毒そうな顔で叫んだ。 今夜は久し振りに、イ氏から離れたところに捨て置かれたような簡易椅子に、彼女がしっかり座っていた。
後鳥羽上皇の熊野御幸の道中記で藤原定家が「とにかく辛かった」と記していた話から、南方熊楠の遍歴に話が至ったところで、イ氏が慌てて彼女に振り返った。
「こんな話、何が何やらさっぱりだろう?」 「ええ、はい。難しくて」
キュキュキュと肩をすぼめて膝の上に置いた両手の間に顔を隠した。 イ氏がクマグスて人はね、とかいつまんで説明したけれど、かいつまみ過ぎてけっきょくそれら説明の言葉は、彼女の中で結合して南方熊楠の像をなすのは難しいようだった。
イ氏はわたしに振り返り、「やっぱりひとりで行くの?」と尋ねたので、「残念ながら」とわたしは答えた。
「そりゃあ山の中を丸一日歩き通すなんて、誰も一緒に行きたがらないよ」
イ氏が笑いながらのけ反った。 あまりにも明解な正論だったので、わたしは「だからひとりのうちに行くんです」とささやかな弁解をした。
「そんなことないです。そういうところって、行ってみたいと思いますよ」
じっと聞いていた彼女が、目を見開いてイ氏に言い返した。ぱっちりした目が、より強い力を放っていた。 予想外だった彼女の声に、思わずイ氏は尋ね返した。
「本当かい?」 「本当に。行ってみたいと思います」 「だってさ」
くるりとイ氏がわたしに振ったので、わたしは精いっぱいの安堵の息をついた。
「それじゃあ」イ氏が満面の笑みでさらに詰めてきた。
「プロポーズしなくちゃ」
プ、プ、プ。
「プロポーズ?」
イ氏の口から飛び出した突拍子のない言葉に、わたしたちはそろって目を見開いて驚いた。 彼女はイ氏のスタッフのひとりであり、通常はそんなことは最も敏感に避けるべき話のはずだった。 だからわたしも、イ氏との付き合いはおそらくこれから先長いものとなることを理解していたので、もちろん話題にすらしないようにしてきた。
「熊野の山で遭難しように行ってらっしゃいな」
イ氏は「それじゃ帰ってきて話を聞くのが楽しみだなあ」と、わたしたちを置いてけぼりにして話を片付けてしまった。
「あの、それじゃあ、無事に熊野から帰ってきますので」
何が無事になのか、無事の結果がなんなのかはっきりしないまま、わたしは立ち上がりすごすごと退室するしかなかった。 とりわけ道なき道を歩くのではなく、ちゃんと観光コースで紹介されている道だった。ただそれが、人里とあまり接することなく八時間ほどかけて山を越えてゆく道のりなだけだった。
そして紹介文に「二名以上での通行をお勧めします」というひと言が、念を押すように添えられていた。
「行く先はちゃんと誰かに伝えてあるのかい?」
さっきイ氏が笑いながら諭してきたのを思いだし、大袈裟にして楽しんでいただけなのだろうと判断していた。
そうして静かな廊下を抜け、受付でいつも通りに会計を済ませていたところで、彼女がふたたびやってきたのだった。
会計のところにまで彼女がやってくることは、まれなことだった。
だけど前回、小説を今度読ませてほしいと言いにきたことを突然思い出した。 しまった、すっかり忘れていた。 あれもいわゆる社交辞令だろうと思っていたので、本当に持ってきたら恥ずかしいだけなのじゃないだろうか、と思っていた。
彼女がそのことに触れない限り、わたしも何もなかったように振る舞うことにした。 すると彼女は触れようとするどころか、やはり何もなかったのだと自分の記憶を疑うほど何の素振りも見せなかった。 思った通り、わたしの杞憂だった。
ところが、彼女は同僚である受付の女性にわたしがさも秘境にひとりで旅に行くかのようなことを説明しようとしはじめたので、わたしは慌てて否定した。
「たった一日だけ、たかが七、八時間ほど山の中を歩いて行くだけですから」
受付の女性は冷静に「それでも大変でしょうから、気を付けて行ってきてくださいね」と止めていた手をふたたび動かしだして、トントンと受付表の挟まったクリアファイルを揃えた。
パチリとした目に笑みをたたえた彼女が、口元をきゅっと引き締めてわたしを見ていた。 言われてしまったのと同じ言葉を自分が繰り返さないよう、戒めているようだった。
直視するべきではない、そう思ったわたしは軽く頭を下げながら出口に振り向いた。
「ありがとうございました。気を付けて行ってきます」
そうして振り向くことなく自動ドアに手を伸ばした。 すると突然頭に今の風景が浮かび上がり胸が疼いたが、ときすでに遅く、自動ドアはためらうこともなく当然のように閉まっていた。
手振れしてピンぼけしたフィルムカメラの写真のような中に、おじぎをしながらきちんとわたしを見ていた彼女の姿に気が付いたのだった。
わたしもきちんと目をみて応えるべきだった。 だけどそれは、勘違いしていると思われてしまうに違いなかった。 だから、わたしはひとり大森駅に早足で向かい、改札口をピピッと抜けて家路へと急いだのだった。
「土佐の高知のはりまや橋で、 坊さんかんざし買うを見た」
夜さ、来い。 夜さ、来い。
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