いざ熊野へ。
世界遺産になっている熊野古道(参詣道)を歩き、熊野三山を詣でるのが今回の旅である。
熊野は日本でも有数、いや一番といってもよい霊場である。 日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている、三本足のヤタガラスの案内によって神武天皇が吉野の地に入った話は有名である。
また、日本の建国神話が物語られている日本書紀や古事記などを見てみると、そもそも近畿が主な始まりの舞台となっているのである。
これは歴史上、そのときどきの権力者が後生に都合よく加筆修正しつつ記してきたものであるので、国家ぐるみの壮大なエンターテイメント絵物語と解釈してもらいたい。 それがまた、我がまま気ままなこれら日本の神たちは、おバカでヌケテて単純で個性的で、まるっきり力の使い方を知らない集団だったりするのである。
危なっかしい。 そそっかしい。 だから、愛嬌たっぷりに見えてしまう。
さて、話を旅に戻そう。
三大何樫やら四大云々といったものが好物なわたしは、諸説あるなかの何大霊山や霊場をプチプチとしらみつぶしにしてきたが、高野山は行っても熊野には行ったことがなかったのである。
「そうだ。熊野に行こう」
と、頭の中に新幹線が浮かんだかは定かではないが、会社の盆休みが高知県の「よさこい祭り」ときれいに重ならずさらに有給休暇をくっつけることが叶わないとわかったとき、閃いたのである。
もとより、作品のネタとして山もしくは森のなかをさ迷ってみたい、と思っていたのである。 調べるほどに、熊野はうってつけである。世界遺産である熊野古道がある。
観光バスで巡るのではならない。 しかし、全てを踏破するには体力的に無理がある。 いや、予定的に無理がある。
一日だけ。
たかが一日だけならば、週末土日は山手線三分の一までは全て徒歩、というポリシーを持つわたしにとって不足はない。 と思っていたのである。
そうしてなかなか険しいルートで有名な「大雲取越」を選んだのである。
しかし、日にちが迫るにつれて、あることを思い出したのである。
以前、岩手県遠野市に行った際、レンタカーを借りればよいものを地図の距離を迂闊にそのまま鵜呑みしてレンタ「サイクル」で充分と、判断してしまったのである。 結果、途中で何度、自転車を投げ捨ててしまいたい衝動に駆られたか。
山道を舐めてはいけないのである。
思い出せば出すほど、息は切れ、動悸は激しくなる。
ゼエハア、ゼエハア。 ドキドキ、ドクドク。
時間を有効に使うために、夜行バスで池袋から紀伊勝浦まで行く。 初日にいきなり挑戦するのは無謀と判断し、また二泊三日の最終日も危険となると真ん中の二日目しかない。 二日目に朝から「大雲取越」に挑戦と決まると、残りの二日間の観光の予定を練るのが順当であるが、頭がまったく言うことをきかないのである。
標準で七時間とあるが、わたしならば五、六時間だろうか。いやいや、やはり七時間、いや八時間九時間かもしれない。 「二名以上での参加をお勧めします」と。なんとこれなら島根の「投げ入れ堂」と同じではないか。
また「大雲取越」に挑戦した方のブログをみつけては、なんだひとりではないか。ふむふむ九時出発でよいなら、失礼ながらまだわたしの方が体型的に痩せているのだから大丈夫だろう。 いや、彼はどうやら他にも踏破されている臭いがする。甘くみてはいけないかもしれない。
などと、挑戦する遥か前から既に遭難状態だったのである。
熊野詣での歴史を憂さ晴らしに見てみると、どうやら順番らしきものがあったらしい。
そもそも熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三大社からなる。 「三」とは、わたしの大好物でなかなか幸先がよい。 さて順番だが、まずは本宮、続いて新宮(速玉大社)、那智大社から新宮に戻り、また本宮に戻るらしい。
うむ。 往路・復路でいうところの復路ということにしよう。
あっさり決める。 大雲取越は、那智大社から本宮へと向かう中辺路(なかへち)の一部である。 雲取山を越え小口という中間にある町までで、そこから先は「小雲取越」と呼ばれ、通常ならば「大雲・小雲取越」として本宮へのひと続きの道なのである。
熊野詣でが盛んだった時代は、一日で「大雲・小雲取越」を走破していたらしい。 現在は小口で一泊し、翌日小雲取越を抜けて本宮へ詣でるのが普通らしい。
小口で一泊もせず、とんぼ返りするつもりのわたしだが、何かご不満はあるだろうか。
さてそれなら順番は決まった。 那智大社から新宮(速玉大社)に、そして最終日に本宮としよう。 そしてまたまゆつばだが、以下のような話を見つけたのである。
さあ、大人である諸氏諸兄諸君、歴史のお時間である。
後鳥羽上皇の名を覚えているだろうか?
なに、名前くらいなら、と。
嘆かわしい! 非常に、嘆かわしいっ!
わたしと同類ではないかっ。
熊野は貴賤男女を問わず、敷居低く誰しもを受け入れたことで、すっかり信心を得たが、問われずとも偉い方々は自ずと滅法界なく詣でているのである。
後鳥羽上皇は「承久の乱」を起こし、鎌倉政府に破れたのである。
……たしか。
さて当時、熊野御幸(上皇らが詣でること)は御抱えの陰陽師(陰陽寮)に日時を占わせ決めるものであった。
陰陽師といえば安倍晴明であり式神であり野村萬斎であり、まゆつば感が満載であるが、占いとして真に根付いていたのである。
さらに、熊野信仰は修験道と深く関係があり、修験道といえば天狗であり源義経であり、わたしはどうやらわけがわからなくなってしまったようである。
とかく「なんでもあり」的なのが熊野なのである。
陰陽師とは陰陽道である。 機嫌は不可解、いや起源は中国の道教、八卦、陰陽五行論となる。 陰陽五行論とは、目下土禁っす、ではなく木火土金水の五要素から世界は成り立つという思想である。
木は燃えて火が生じ、火は土(灰)を生む。 土は(山となって)金(鉱物)を生み、金は錆びて水に還る。 そして水は木を成長させる。
という「相生」の生み出す陽の関係と、
水は火を消し、金(斧等の金属)は木を斬り倒す。 木は土(地面)を割って根を張る。 そして土は水をせき止める。
という「相剋」の潰しあう陰の関係がある。
ここで熊野の各々を五行にあわせてみるらしい。
熊野本宮は西であり(西方極楽浄土)属性は「金」である。 本宮からは熊野川を舟で下るので属性は「水」である。 熊野新宮(速玉大社)は東であり(東方浄瑠璃浄土)属性は「木」である。 熊野那智大社は南となり(南方補陀落浄土)属性は「火」である。 そして大雲・小雲取越は山(道)であり属性は「土」である。 熊野本宮の「金」に戻る。
「金から水を生じ、水が木を育て、木から火を生じ、火は土に還す。 そして土からまたあらたに金を生ずる」
最後の「金」とは道教の太白金星を指し、天下に災厄をもたらす星とされている。
つまり後鳥羽上皇は「五行相生」に乗っ取り、乱を呼び起こそうとしたらしい、というのである。
なんとも、歴史ロマンである。
ちなみに二日目の「大雲取越」に支配され、まったく頭が働いてないわたしだが、おそらく、初日に那智大社から新宮(速玉大社)へ。 二日目に「大雲取越」から熊野川沿いにバスで戻る。 三日目に本宮へ。
となるだろう。 つまり。
火をもって木を燃やし。 土(灰)にチョロチョロっと水をかけて後始末。 水がかかって金が錆びる。
錆びる?
錆びては使い物にならないではないか! いかん! これはクマ(熊)った!
遭難の原因は、わたし自身の下らない迷走にあるらしい。 熊野の山を上ってゆくつもりなのだから、下らないのは仕方がない。 上り切れば、やがて否応なしに下らねばならないのである。
池袋の車窓の夜景は、三列座席の真ん中の席で、閉められたカーテンの開け閉めは叶わなかった。
おそらく、やさしく瞬き、わたしを見送ってくれていたに違いないのである。
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