2011年08月28日(日) |
「スーパーよさこい2011」オフラインからオンライン |
今年のわたしの、本格的な夏が、はじまりました。
原宿表参道元氣祭 「スーパーよさこい2011」
土日の二日間、原宿表参道を東京で最も熱い街に変える。
二日間5ヶ所の会場に設けられた舞台で、全国からよさこいの連が集まり、跳ね、舞い踊る。
熱くならないわけがない。
気合い充分、やる気満々。
わたしの手元にある各会場の演舞予定表は、贔屓の連をすでにしっかりと蛍光色で引いてある。
「よし、漏れはない」
よさこいはステージの演舞だけでなく、いや、本来は「流し」が見ものなのである。
「前へ」
前へ前へと、舞う。
表参道の車道の一区画が、日曜だけその舞台のひとつとして生まれ変わる。
ここはいつも、歩道内の通行を妨げぬよう、また舞台である道路上にはみ出さぬよう、見物席がテープで規制されている。
しかも一番の見所でもあるので、油断せずとも、あっという間に十重二十重の人垣ができ高手小手に囲まれてしまうのである。
人の隙間から垣間見るしかなくなってしまうこともよくある。
しかし、炎天下である。
いくら立派なケヤキ並木で木陰があるとは言え、よほど熱心でなければいつまでもじっとはしていられない。
お目当てが終わるか、辛抱出来なくなった方が、ちらほら見物席から出てゆく姿が現れる。
わたしはその隙間を、ツイ、ツツイ、とミズスマシのように音もなく前へと移動してゆく。
コンビニで買った昼飯のパンをかじりながら。
そこらへんくらいの用意はわたしとて周到である。
各連は、一曲7分程度3回の演舞で踊り抜けてしまう。
場所によっては終わりと始まりのちょうど切れ目で、
ああぁ……。
と曲が演舞が終わってしまい、曲がふたたびかかると、
あらら……。
と通り過ぎてしまうこともある。
そこもまた、席を決めるときの難しいところなのである。
あぁ。
泣きそうになる。
なぜ、こんなにも 胸が奮えるのだろう。
よさこい祭りとは、祭りの多くが神事から発生したそれとは、違うのである。
人の手によって、当時の復興を願い、元気と勇気と明日への希望をと、はじめられた。
人のエネルギーは、 かくも素晴らしいもの。
感動にむせっている場合ではない。
わたしのお目当ての連を、追いかけなければならない。
次はステージでの演舞。
メインの原宿口ステージ 明治神宮文化館ステージ じまん市・NHK前ステージ
横手焼きそば かき氷 塩ソフトクリーム
すっかり、味わい尽くさせてもらうことができました。
さて。
ここで私事ではありますが、この度
「推しレン(連)」
を決定することに致しました。
それは……。
「音ら韻」(東京都)
です。
「ほにや」(高知県) 「十人十彩」(高知県)
のふた連は、変わらず不動の「永久推しレン(連)」です。
言うなれば、「十人十彩」は長島茂雄です。 そして「ほにや」は王貞治です。
「ほにや」の女性主体ならではの優美さ、たおやかさにまさに初恋の出会いをし。
「十人十彩」の男女等しく揃った凛々しさ、粋さに恋愛とはなんたるやを知らされ。
よさこいの虜となってしまいました。 しかし虜から、やがては自立せねばなりません。
囚われたままでは、真の恋は見つからないのです。
例えるならば、二次元に恋するばかりに逃げ込んでいる現実逃避の恋は恋ではなく。
そこから三次元の現実の恋へと引っ張り出してくれたのが、
「音ら韻」
なのです。
なにやら支離滅裂な物言いをしているようである。
あらためると。
どうやら「よさこい」の全国あまたある連(チーム)の中で一、二を争ってお気に入りだった「ほにや」「十人十彩」であるが、彼らはもはや別次元の存在としたようである。
そしてより現実的にいたく御執心となった連が「音ら韻」という東京都の連ということらしい。
確かに、「音ら韻」は、素晴らしかった。 いや、「素晴らしい」などという言葉では到底、足りない。
彼らが舞えば、たちまち一陣の風となり、心地好い世界へとさらわれてしまう。
彼らの一挙手一踏足に、リズムに、笑顔に、はち切れんばかりのエネルギーに、呑み込まれてしまう。
イデアの眩しすぎる光の向こうにあり、見ることができずまた存在すら気付くことがなかった「真理」を、暗闇の洞窟から光の下に連れ出し、やがて目が馴染むとその「真理」の存在に気付かせてくれたような存在。
わたしの幾分偏屈で妨害電波ばかりの回線が、ようよう「音ら韻」の世界と繋がったかのような衝撃。
錯乱気味の能書きはもう、結構。
次はおそらく1ヶ月後に、池袋で繋がることが出来る。
ただそれだけが、わたしの暦と言ってもよいかもしれない。
心ない邪魔が入らないことを祈るばかりです。
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