「隙 間」

2011年09月19日(月) 「犬の生活」「キッド」

「犬の生活」
「キッド」

をギンレイにて。

チャプリンの無声映画の二作品である。

中学か高校の頃、チャプリン作品を全部観ようと決意しかけて、しかけただけで、そのままになったことがあった。

チャプリンは、恐ろしい。

悲劇と喜劇を、同時に伝えてくる。

言葉も無しに、である。

交互に織り混ぜるくらいなら、腐るほど今の監督・役者らのなかに出来るものがいるだろう。

では、同時に、いったい誰が出来る?

これらの感傷は、わたしの個人的なものに発生したものであるから、根拠は何もない。

十代に観て感じたものは、ただひたすら絶妙な間と切り返しのコミカルさであった。

香港のジャッキー・チェン作品に惹かれたのも、同じである。

真剣に滑稽に、そこにあるもので目まぐるしく、小気味良く、観ているものを引き込んでゆく。

チャプリンはそこに、哀しさを笑いで塗り潰して見せているように、わたしは感じてしまうのである。



言葉も無しに、反則だ。



言葉がないからこそ、やってのけられた。



考えれば考えるほど、奥歯が軋む。



身の程知らずの物言いだが、

チャプリン、ぶっ潰す!

いや。
潰すとかの問題ではない。

訂正しよう。

チャプリン、上等!

もはや意味がわからない。
すっかり迷走の様相を呈している。

つまりは、そんな心意気である、ということである。



人並みにやることよりも、こんなことを言っているから駄目なのだろう。

つまらないことだが、友に告白しよう。

とんかつ屋で、ひと切れ交換しよう、と言われて交換したひと切れを食べたとき、歯応えの無さに

「ああ、メンチだったんだっけ」

と思い違いに笑ったが、実は、

(なにっ、まさか衣だけのところを敢えてよこしやがったのかっ!?
なんたる手練れ!?)

と、あり得ぬことを一瞬、思ってしまったのである。

リアクションに若干の間があったのは、それが本当の理由である。

これで、少しすっきりした。

あとは「d」の由来だけだったが、まあ、もうそれは前回そのままでアップしてしまったので急ぎはしない。
肝心な今さらなところをすっかり忘れてしまったわたしに対して、もしも遺憾に思ってしまったのであったなら、深く陳謝したいと思っているところである。



肉食後は、どうも血の気が荒くなってしまうようである。

唐揚げとチキンカツを食べて、チキンハートに倣おうと思う次第である。


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