「隙 間」

2011年10月01日(土) 「家族X」「アンダーグラウンド」

「家族X」

を渋谷ユーロスペースにて。

南果歩主演。
路子は専業主婦で、毎朝毎晩、夫の健一とひとり息子の宏明のために食事を作る。
ランチョンマットのわずかなズレも許せず、何度も整える。

宏明はフリーターで夜勤の仕事ばかりを選び、そして食事にまともに手をつけることはなく、早朝に帰宅し、午後に出てゆく毎日。

健一は職場で窓際族のような扱いで、それでも職場で最後のひとりになるまでデスクに座り、喫茶店でさらに遅くまで時間を潰してから深夜に帰宅。

路子は、それでも毎日々々、食事を作り続け、そして棄て続ける。

新興住宅地の中の一戸建てで、幸せなはずの我が家でなければ、周囲から浮いてしまう。

見えない重圧。
自らの重圧。

いるはずの家族が、まったく見えない日々。

孤独と重圧――。

夕飯の食材を買いにきたスーパーで、衝動的に惣菜、弁当、菓子を買い漁り、夢中でそれら全てを食べ尽くす。

とめられない。

誰にも食べてもらえない食事をきちんと作って、そして棄てて。

作らなくても、こんなに食べる物は、ある。

食べる食べる食べる。

そして、吐き出す――。

冷蔵庫の中が、全て腐って真っ黒のドロドロになる。

近所付き合いで購入したウォーターサーバーのタンクの中が、藻だらけで腐って淀んだ色になる。

ベランダの植物は全て枯れ果ててカサカサになっている。

それでも路子は、ロールキャベツを作る。
出来上がったロールキャベツを自分ひとりだけの皿に取り分ける。

そして。

素手で握り締める。
投げつける。
皿を、鍋を、ひっくり返す。

そのまま家を飛び出してゆく――。

孤独。
居場所のなさ。

夫の健一も、居場所がなかった。
息子の宏明も、居場所がなかった。

それぞれの居場所のなさと向き合わされて暮らしている日々の中、ふたりの唯一の居場所だった家が、路子にとっては居場所のない家になっていた。

主婦が常に抱える孤独。

子どもがいようが、近所付き合いがあろうが、家族が応えなければそれは日増しにつのってゆくばかり。

南果歩の演じる姿が、胸にグッと、いや、喉元をジリジリと締め付ける。

世の中の旦那様がた。

疲れてる、話すことはない、俺だって自分の時間が欲しい、その気持ちはわかる。

しかし、そこにいるはずなのに、まるでいないかのようにされる疎外感、孤独感は、いったいどれだけの傷をつけているか、想像してみよう。

わたしもかつての相方のお宅で、家にいるのと同じつもりでパソコンを借りてネットを漂っていたときに、本気で怒られたことがあった。

食後の、日課のようにこなしていたことだったし、今夜すぐ帰らねばならないわけでもないし、くつろいでるとわかってもらえるだろうし、と。

そんなのと、毎日一緒に暮らしている夫婦とを比べてくれるな、と思うだろう。

その通り。

そんなのと比べものにならないくらい、毎日一緒に暮らしている夫婦の方が、つけられる傷は深く、癒すのが難しい。

昔は、テレビばかり観て会話が上の空、ということがどこの夫婦にもあった。

今は、携帯・パソコン。
「ながら」がまだゆるされたテレビと違い、携帯、パソコンは、それができない。

いや、できている。

という方がいたら、わたしはお目にかかりたい。

テレビなら、優先順位を会話に傾けることは容易い。
何もしなくても向こうから流れてくるだけだから。

しかし、携帯・パソコンは、自らがまず何かを働き掛ける行為ありきのものである。
だから、「ながら」で会話が一番目に、携帯・パソコンは二番目に、などとできるわけがない。

であるから、わたしはここで言っておかなければならない。

わたしの場合の携帯は、ゲームだとか調べものだとか以外、区切りがつくまでは、チラチラ文字変換の確認をしつつ、プチプチとボタンを繰りながらの会話を束の間辛抱してもらいたい。

とはいうものの、この言葉を届ける相手がわたしにはいないのが、とても残念なところである。

サービスデー二本目の作品。

「アンダーグラウンド」

をシアターN渋谷にて。

「昔、ある所に国があった――」

1941年戦禍のベオグラード(旧ユーゴスラビア)を逃れ、地下に潜って暮らしていた人々がいた。
50年間ずっと、未だ第二次大戦が終わらずにいると信じ込んで。

作品自体は1995年にカンヌでパルムドールを受賞した作品である。

上映時間はほぼ三時間。
レビューをいくつかみてから、期待を込めて、この作品だけは観ようと決めていた。

なんと言えばよいのだろう。

期待は裏切られたようにみえて、結果的に、観てよかった、と思わされてしまった作品であった。

ナチス侵攻下のベオグラード。
パルチザンの義賊で詩人で共産党員のマルコは、元電気工のクロを党に入党させる。
パルチザン狩りが進むなか、マルコはクロの一族郎党を地下に避難させる。そしてそこで武器の密造をさせ、マルコはそれをつかってチトー大統領の側近へとのぼり詰めてゆく。

しかしマルコは、地下のクロたちにナチとの戦争はまだ続いている。
チトー元帥がお前に、「最後の切り札」として期待している、と地下に潜伏させ続ける。

一方、マルコはクロのことを、地上では尊い犠牲者として英雄死させ、そんなクロの映画製作まで進めていた。

しかしやがて、そんな欺瞞にマルコは耐えきれなくなり、クロを含め、地下の皆をダイナマイトで地上の建物ごと爆破してしまおうとする。

そのドサクサに紛れ、クロは地下で生まれた息子のヨヴァンと共に、地上出て祖国のためにナチを掃討してやろうと手榴弾と銃を持って抜け出てしまう。

地上に出た場所は、「英雄クロ」の映画撮影の現場だった。
そうとは知らず、まさにナチの制服だらけの真っ只中に出てしまったクロとヨヴァンは、撮影班を虐殺してしまう。

ドナウ河で生まれてはじめて太陽を見て感動するヨヴァン。

そこに映画撮影班虐殺犯の追跡にきたヘリコプターに銃撃されてしまう。

そして世界ではチトー大統領の死によって、またユーゴスラビアは混乱に包まれてゆく。

1992年、クロたちとは別に偶然地下から抜け出していた実の弟イヴァンはベルリンの精神病院にいた。
医師から「ユーゴはもうない。大戦もとっくに終わっている。今は旧ユーゴは内戦の真っ最中だ。兄のマルコは武器商人として国際指名手配されている」と真実を打ち明けられる。

混乱と失意のもとに、イヴァンはマンホールから再び地下世界に帰ってゆく。
そこには、かつてパルチザンが作り上げたヨーロッパ全土を結ぶ巨大地下通路があり、難民、国連軍が行き来していた。

イヴァンは激しい内戦中の旧ユーゴに辿り着く。
そこで、まさに武器密売の交渉を済ませた兄マルコと出会い、木切れで怒りをぶつけるまま殴り続ける。

気を失ったマルコを殴り殺してしまったと思ったイヴァンは、瓦礫化した教会で、首をつって罪を償う。

マルコは意識を取り戻すも兵に捕まってしまう。
指揮官に処分を無線で伺う。

「武器商人など銃殺してしまえ」

即座に引き金がひかれる。
指揮官とは、生き残っていたクロだった。

身元確認のパスポートでマルコだとわかったクロは、失意に暮れ、かつて50年暮らしていた地下室を訪れる。

爆破のあとでまだ残っていた井戸から、息子ヨヴァンの「パパ」と呼ぶ声が聞こえてくる。

呼ばれるまま、井戸へ。

井戸はドナウ河に繋がっていた。

その岸辺では、一族皆が揃ってヨヴァンの結婚パーティーの真っ最中だった。

そこへ、親友マルコもやってくる。

気まずそうに、だが握手を求め、クロも迷わず握り返す。

「許そう。だが、忘れないからな」

皆が陽気な音楽に合わせて踊りだす。

その岸辺はゆっくりと切り離され、自由な海へと漂ってゆく。

「わたしたちは、この先伝えなければならない。

昔、ある所に国があった――。」

イヴァンが、最後に語りかける。



最後のこのひと言を聞かされただけで、三時間の陽気なジプシー音楽にのせられたおちゃらけやドタバタを、一蹴するように締めくくる。

歴史のことだけではなく、まさに現在進行しているユーゴ内戦を作品内に描いていた。

国連軍の兵士がクロに所属部隊を尋ねると、

「我らの「国」だ」

と答える。

民族だのなんだのということより、「国」を取り戻すために戦う。

正義がどちらかだとか、それぞれに言い分や正当性はあるかもしれない。

しかし最後のひと言が予想外に重く響き、三時間の作品として説得力を感じさせられてしまった。



サービスデーでなければ、おそらく選ばなかった作品かもしれないが。


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