ああ……。
大森の夜はおそらく夢だった。
わたしが早く帰ったので、次は大分県も早く帰りたいのは当然である。
「じゃ、僕はお先に帰るんでよろしくお願いします」
う、うむ。
わたしは鷹揚に頷き返したのである。
わがチームの社員は大分県とわたし、そして新人の女の子がひとりいるだけで、他は派遣や外注さんばかりなのである。 当然、社員が外部の方だけを残して帰ってはならない。
もちろん、これは大分県の仕事だからわたしは関係ない、だのとふざけたことを言える立場ではない。 担当が誰々なだけで、それはチームの仕事なのである。
大分県を見送ったのが九時頃だっただろうか。
わたしは三連休を、歯医者にかこつけて一日だけ休むことにしてある。 だから、今夜是が非でもと追われているわけではなかったのである。
しかし皆さん、なかなか帰れないらしい。
しかも全員「女性」なのである。 十時を過ぎた辺りで仕事を片付けた方から、つかの間のお喋りがはじまってゆく。 そして残っていた三人目がパソコンの電源を無事落とすと、「お疲れさまでした」「お先に失礼します」と固まって退社してゆく。
独力で、徹夜連泊などあって当然の厳しい世界をくぐり抜けてきている方々とはいえ、そこは多少気にしなければならない。 しかしわたしが気を使うまでもなく、「お疲れさまでした」と送り出したのが十時半頃であった。
社内にはもう、わたしたち以外に誰も残っていない。
そう。 新人の女子が、まだまだカツカツと格闘中なのであった。
ああ……。 もう、帰りたい……。
彼女はわたしではなく大分県の仕事をしているので、わたしが出来上がりの程度を勝手に切り上げるわけにもゆかない。 彼女自身も、大分県にチェックしてもらえるところまでやり遂げなくてはならない、と腹を括っている。
それでも、終電までには帰るつもりだろう、とわたしは高をくくっていたのである。
仕方ない。 わたしも終電頃までは付き合うしかない。
高と一緒に腹もくくったのであった。
できるならば、終電前に「はいはい、今日は頑張った。後は明日以降にして帰りなさい」と、早く言ってしまいたい。
「竹さんは、連休ずっと出るんですか?」 「日曜は休む」 「私は、始発までにこれをあげて、休むつもりなんです」
「始発までには」と、確かに言った気がする。
念のため、今の時間は十一時半である。
ラスト・ワン・アワー。
それがわたしに残された終電までの時間である。
「予定があるので、それまでにやらなくちゃいけないんです」
始発。 おそらく四時半頃だろう。
ラスト・ファイブ・アワー……になんぞしてたまるか。
わたしは翌土曜も、昼から来るのである。 寝ずにやって、明日は休めばよいだろうとの意見は、受け止め難い。
六時間は、せめて寝たい。 なにせ、四時間の日々が積もり重なった金曜の夜である。
しかし、新人の女子ひとりを残して帰ってしまうのと。
新人の女子とふたりきりで朝まで仕事するのと。
どちらをとるべきか……。
ラスト・ハーフ・アワー。
日付が変わった。 わたしはすでに、ムズムズしはじめている。
「もう何度も泊まり込みで、大変なんだよ」
大分県の悲鳴がよみがえる。
「竹さんは、終電大丈夫なんですか?」 「帰るぞ、ちゃんと」
ラスト・タイム……オーバー。
しかし、置いて帰ってよいものか、ふんぎりが未だつかない。
明日九時に起きるとして、三時に寝れば六時間寝られて、ということは、二時過ぎにタクシー捕まえれば大丈夫。
よし、帰る算段はついた。
それまでに、帰る流れを作らなければならない。
チクタクチクタク。
いまどきそんな音のする時計など社内にはないが、わたしの心境を表すにちょうどよい言葉がない。
「そろそろ帰るよ」 「ちょっと待ってください!」
ようやく切り出したわたしの後の先を制したのである。 なかなかの手練れ、ではない。
「お手洗いだけ、行かせてください!」 「トイレなんぞ断らんで行けばよかろうが」 「そうじゃなくて、出たらヤですもん!」 「何がっ?」
「何もしてないのに、プリンターが動いたりするんです」
「……」
そりゃあ、動くこともあるだろう。出る出ないの話ならば、紙が出なくて困る、というなら問題だが。
「だから、後で行かなくてすむように、ちょっと待っててください」
そうして戻ってくるのをしばし待ち、
「じゃ、気を付けて帰りなさいな」
閉まるエレベーターの扉の向こうで「お疲れさまでした」と挨拶するのに片手で答え、ようやくわたしは退社したのである。
時刻は一時過ぎ。
タクシーを捕まえ揺られながら、つとつととこれを記す。
ああ……。 寝たい……。
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