「隙 間」

2011年10月30日(日) 「ヤコブへの手紙」

「ヤコブへの手紙」

をギンレイにて。

終身刑だったレイラに恩赦が出され、釈放となる。
行く先の宛てもないレイラに紹介されたのは、目の不自由なヤコブ牧師の元に届けられる手紙を読み、返事を代筆する仕事だった。

廃屋かとみまごうほど質素で雨漏りがする牧師館に、ヤコブ牧師はただ手紙だけを日々の拠り所に暮らしていた。

手紙が届かないということは、人々の悩みや心配がなくなった、と喜ぶべきことのはずだった。

しかし、実際に届かなくなると、

誰からも、神からも、必要とされなくなったのでは。

と不安に気付かされてしまった。

「頼みもしないのに、わたしの恩赦を頼んでたのはあなたの自己満足よ」

レイラはヤコブ牧師にいった。

手紙が届かなくなり、すっかり落ち込んでしまった牧師をみかねて、レイラは手紙が届いたふりをしてみる。

しかしレイラのでっち上げられる程度の些細な悩みの手紙などたかがしれている。
さらに返事を出そうにも住所不明といってしまったので、牧師はがっくりとうなだれてしまう。

「もう一通、あります」

レイラは自分のことを、牧師に語り始める。

唯一の姉が、母親からの虐待を、赤ん坊だった自分を守るため身をはって守ってくれていたこと。
姉が結婚した男が、姉に暴力をふるい続けていたこと。
殴り疲れると休憩し、また殴りはじめてそれがずっと続いていたこと。
姉を守るつもりが、姉が愛する夫を自分が刺し殺してしまったこと。

だから。

姉とは二度と会えない。
面会も断り、手紙も封を切らずに送り返していたこと。

わたしは、許されるのでしょうか?

「神は、なんでもできる」

レイラ、あなたに見せなければならないものがある。

ヤコブ牧師は、レイラの姉からヤコブ牧師へ宛てられた手紙の束を、見せる。

「一度しか書いてこない人もいれば、書き続ける人もいる」

面会もかなわず、手紙も未開封で返ってきてしまう。
世界で唯一、自分の気持ちをわかってくれていた妹が、その安否も消息もわからない不安。

ヤコブ牧師はその思いをただ代筆したに過ぎなかった。

レイラの頑なだったその瞳に、光がゆるむ。



わたしにはキリストさんへの信仰やらは毛頭ない。
おこることも、まず、ない。

しかし、なんてまあ、楽な人生観なのだろう、とややもすれば思ってしまう。

まあ、そうでなければ救われない絶望の淵にいる人々だっているのはたしかである。

「神はなんでもできる」

という言葉にレイラが救われたこともたしかである。

神というのは、免罪符たるきっかけなのだろう。

たとえば何かを思ったとき、誰かに同意や共感を求めたくなり、それが得られてやっと自らに帰属させる。

誰か、が友人や具体的に答えを聞ける存在がいない場合、自らのみで答えを出さねばならない。
自らでは踏みきれないのだから悩んでいるのに。

そこに、「おお、神が許された」と、いつでもどこでも出し入れ自由な存在がいれば、簡単にすむ。
しかもいざとなれば「神のせい」にしてしまえばそれでよい。

試練だのなんだの「みこころのままに」

もちろん、これは無頼漢のわたしが偏見であげつらった一面にしか過ぎない。

日本人の「観念(する)」と同意義の言葉は、あるのだろうか?

思想の成り立つ土台が違うのだから、同じものはありえないのだろう。

観念することは、一切を我が身で受け入れ己を解き放つこと。
つまりは能動的。

しかし、おそらくキリストさんのほうでは、受動的、にしかなり得ない。
命を与えたのも、滅ぼすのも、神。

神の前に人間の意思はない。

東日本大震災も、以後の放射線騒動も、全て、異教徒や神の与えたもうた試練なら、どれほど楽か。

憎む、怒る、それらを向ける対象が絞られれば、扇動しやすい。

などと毒を吐きながら、否定してるわけでないのだ、といい直る。


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