「定時は十時」
これが合い言葉のようになっている。 十時というのは夜の十時で、退社時刻のことである。 それは男女問わず、朝は通常通り八時半出社なのは変わらない。
十月からここにきて、わたしは十時前に帰ったことなど片手で数えるくらいしかないと思う。
その片手のうちの大半を占めている退社理由が、大森である。
さて木曜。 その大森である。
行くに行けず、なんと一ヶ月ぶりである。 もうそろそろ残量が底を尽きかけていて、さすがに貰いに行かなければならなかったのである。
「久しぶりですね」
田丸さんが廊下を先に歩きながら話しかける。
「竹さん、来ないなぁ。もう、いらなくなっちゃったのかなぁって……」
おお、田丸さんがそんな寂しげに思ってくれていたのか。
「って、イ氏が言ってましたよ」
とても残念である。 そうだ、とあらためて。
「優勝おめでとうございました」
ありがとうございます、と破顔する田丸さんは、なかなかキュートである。
「お仕事、まだ忙しいんですか?」
彼女は、そっとわたしの右手を取り、何かを測るようにして視線を逸らす。
「ええ。こうして話をするためにくるのすらやっと、な状態で」
嘘ではない。 大森にくるという理由がなくては、こんな時間に退社などできない。 しかしそれすらも理由にならず、無理やり飛び出してきて今日、ここにやって来ているのである。
この偽りないわたしの心情を吟味するかのように、彼女はわたしと視線を合わす。
「不整脈とかは大丈夫ですね」 「ええ、はい」
田丸さんは冷静に書き込んでゆく。
「実はヤタガラスがなくなっちゃったんです。せっかくいただいたのに、スミマセン」
熊野土産のストラップに付いていたヤタガラスのマスコットのことである。
わたしのヤタガラスもまた、なくなっている。
なんと奇遇だろう。 ヤタガラスが飛び立ったのは、もはや導く必要なし、という暗示であったのか。
「僕のは、ちゃんと付いてるよ。君たちのは、居心地が悪かったんじゃないの?」
イ氏は、得意気である。 イ氏のそれは、本来は名古屋の友のとこにゆくはずだったものである。 田丸さんの気遣いから手違いが起こり、イ氏の手に渡ってしまったものなのである。
ぐぬう。
であるから、なかなか強く言い返せない。 田丸さんはそんな事情を知らぬので、ただただ笑っている。
「忙しくてこられないようなら、連絡してくれれば送ってあげるよ」
それは、ありがたい。 だが、断る。
「ここにくる理由がないと、困ってしまいます」
これがないと立ちゆかなくなるわたしは、これを貰いに来なければならない、という理由がために早く退社するのである。
それに、その物自体は何万もするものである。いくら保険で安くなるとはいえ、それでも二回分でさえ諭吉が飛んでゆく。 それをツケで済ませてまとめて払うのは、なかなかよいものではない。
今の生活がまったくわたしにとってよろしくないことを、イ氏はもはや口にしない。
「来ないから、もういらなくなったのかと思ったよ」
そんな楽天的なハズはないのである。 さては、わたしが来なかったことにヘソを曲げてしまったのか。
還暦を過ぎたおっさん(失礼な表現で申し訳ない)にヘソを曲げられるよりも、うら若き田丸さんにスネられたいものである。
しかしもちろん、田丸さんはそのような気配は微塵も見せていない。 もしもスネられてしまったらしまったで、わたしは完全にトチ狂ってしまうだろう。
さすがにそれは困った事態であるのは明白で、避けなければならない。
田丸さんと会うのも、年内までで二回ほどしか残されていない。
小説読ませてくださいね。
との約束を果たさねばならない。 短編書き下ろしでもしたかったのだが、それも難しい日々である。 ちっとはまともで、読み飽きない長さの過去作品を選ぶしかない。
それはなんだか悔しいのである。
とはいえ、一年二年前のものと今とで、どれだけ進歩したものになっているか疑問ではある。
それがまた、悔しいところでもあるのである。
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