ず、ずいと顔を寄せられて、真顔で言われたのである。
「三、四時間しか寝ないひとに出すのは、なんか違うんだけどさ」
健康者が「それでも、昼間居眠りせずにいたいので」とやって来ても、決して出してもらうことはないものなのである。
八時間寝てもそうなってしまうからこそ、わたしはそれを出してもらいにやってきている。 しかし、実際は普通のひとでも居眠る「三、四時間」しか寝ていない。
「ホントに、三、四時間なの?」
わたしを疑う声ではなく、わたしが言っていることを、念を押して確かめる口調である。
これまでの共感や慰めとはうってかわり、否定的な問いかけである。
本当にいい加減にしなよ。 なんでそんな生活になる仕事なんかやってるの。 いっときの忙しさなら目もつむるけど、一ヶ月二ヶ月続きっぱなしなんて自殺行為だよ。 そんな自殺したがってるようなひとに、僕は手を貸したりなんかしないからね。
みなまで言わせるな、とイ氏がチリチリとわたしの目を覗き込む。 もとより。 死ぬ気なんかないし、死にたくなんかあ、ないですよ。
まじまじとわたしは見つめ返す。 チリチリとまじまじが、中間のあたりでお互いにそわそわと行き場を探しはじめる。
「じゃ、いつも通り出すけど」
そこへガラガラと戸を開けて田丸さんが入ってきた。 やれそこだ、とチリまじが行き場を見つけ、一目散に逃げ出してゆく。
戸を開けたら漂っていた意図的な何だかわからない部屋の空気に、わけのわからない田丸さんはわからないからこそ気付かない素振りで、銀のトレーに受け取ってゆく。
「できるできないや、やるやらないじゃなくて、向き不向きの問題だよ、それはもう」
時間がきっちり決まっているものや、時間の融通を自分の自由につけられるもの。
言っても簡単には変えられないのはわかってるけどね。 だから、言い飽きないようにあまり言わないけど。
ああ。
田丸さんと顔を合わすのももうあとわずかしかないというのに、こんな「どうしようもない」世界に付き合わせてしまった。
最後まで健やかな時間のまま、過ごしたかったところである。 しかし、そうは問屋が卸してはくれなかった。
「はい、それじゃ」
イ氏は素っ気なく、わたしに手を振る。 「やあいらっしゃい」の友好を示すような手振りではない。 「もう用が済んだから」というぞんざいにも見える手振りである。
これは、凹む。
最後のわたしがとっとと帰らなければ、田丸さんが時間通りにあがってダンスの練習にゆけないというのはわかる。
この二ヶ月ほど、読み終えた本などないのだからあれやこれやと話せるネタもない。
早々に退散すべきである。
仕事はどうにかピークを越え、徐々に落ち着く予定ではある。 しかし、切り盛りする社員の数が足りない。
大分県とわたしのふたりではとても足りず、グループの売上を、質を落とさずにあげてゆくなど、無理がある。
わたしは元来、定時にあがってちまちま読み書きして、九時には部屋へ帰って納豆ご飯を食らい、ぼおっとつつましく過ごす日々こそを求めているのである。
両手指の皮も、三回剥け変わった。
もうもはや、これではおなごと手すら繋げないではないか、などと繋ぐ相手がいない前提での洒落すら、ほざいてみる気にもならない。
どうしようもないことを誰かに話しても、結局「自分がどうにかする」か「どうにもならない」というところに着地してしまうのである。 そうだとわかって話すことは、つまりそういうこと(現実)だと自分にあらためて言い聞かせることでもある。
であるから口には出さず、せめて書くだけにして書きものの内の出来事として済ませたいところである。
残り少ない年末の日々に、何の価値を見いだそうかなかなか頭が働かない。
つつがなく、休みが迎えられることだけを祈ろう。
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