「サラの鍵」
を銀座テアトルシネマにて。
ナチス占領下のパリでユダヤ人の一斉検挙が行われた。
それはナチスによるものではなく、フランス警察によるものだったのである。
警官が検挙にやって来た朝、サラは機転をきかせて、弟を納戸の中に隠れさせ、扉の鍵をかける。 父母と三人でヴェルディヴ(屋内競輪場)に連れてゆかれ、大勢と一緒に押し込められてしまう。
そこはひどい有り様だった。
トイレもなく、皆その場で用を足して垂れ流すしかない状態。 収容所で殺される前に、と自殺する者たち。
「息子をひとり、納戸に閉じ込めてきたんだ。頼むから、家へ、逮捕しに行ってくれ!」
検挙当初は「よく弟をまもった」となっていたのだが、このまま収容所に連れてゆかれるらしいことがわかった父は、警官に必死に頼み込む。
しかし話を聞いてもらえないまま、三人は収容所へと連れてゆかれてしまう。
「きっと弟も脱出してるに違いない」
周囲の言葉にサラは、
「約束したんだもの。わたしが帰らなければ、弟は絶対に隠れたままに違いないわ」
「だから、早く助けにいってあげなくちゃ」
サラは収容所から脱出することができ、老夫婦に助けられる。 そして老夫婦に付き添われ、パリの我が家に「ひと月」振りに帰りつくが、我が家はすでに、別の家族が暮らしていた。
呼鈴にドアを開けた男の子を押し退け、納戸の鍵を急いで開ける。
弟が、帰らぬ姿となったまま、サラを待ち続けていた。
それから60年後。
アメリカ人のジャーナリストとしてパリで暮らしていたジュリアは、アウシュビッツに送られた家族を取材していた。
婚約者の実家だったアパートをふたりの新居にしようと準備をするうちに、かつてそのアパートにユダヤ人家族が暮らしていたことを調べあげる。
できるならば正当な持ち主に返すべきだ。
そこまではできなくとも、会いたい、話をしたい。
サラの行方を、探し始める。
父母はナチスに殺された。 弟は、自分が殺してしまった。
わたしだけが、生き残ってしまった。
「お前だ。お前が弟を殺したんだ!」
父母に取り乱した末にとはいえ、叩きつけられた重すぎる言葉。
奇しくも、ジュリアは妊娠していたことに気付く。 四十を過ぎて、高齢出産のみならず、成人までの子育ての不安もある。
生きる、ということの重たさが、大切さが、ここに、ある。
ジュリアはサラの息子だろうと思われる男をようやく探し当てる。
「俺はフランス人だ。ユダヤ人のわけがない。俺の前に二度と顔を見せるんじゃない。いいな!」
サラは全てを隠し、罪を悲しみを苦しみをひとりで抱え込んだまま、亡くなっていた。
サラの本当の姿を、ジュリアは彼に伝えることができるのだろうか?
彼は母親の本当の苦しみを、受け止めることができるのだろうか?
シラク大統領がそれを認め、謝罪し、世界で話題になった。
と、今さらになって知ったのである。
「黄色い星の子どもたち」という別の監督の作品も、この歴史の事実を元にした作品だったらしい。
わたしは観たく思っていたのだが、時期が合わずに見逃してしまったのである。
新年一発目の娯楽は、やはり映画しかない。
ならば、観たいと思った作品を迷わず観よう、と選んだのだが、これはまた、優れた作品だった。
年始めにこの作品にあたって、今年は幸先がよさそうである。
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