実は、わたしは新人の教育係だったのである。
新人は四名いて、マンツーマンで三ヶ月交替で教育係それぞれの下で仕事をさせるのである。 つまり、ひとりずつ順繰りに、わたしたち教育係は新人全員を受け持つのである。
しかしわたしはずっと出向していたので、十月からの受持ちである。 開始時期にいなかったわたしの代わりに、お多福さんが教育係役を務めてくれていた。
とはいっても、はなからわたしは教育係ではなかったのである。 出向から戻ってきて、新人との接点を取り持ってくれるというありがたい会社側の配慮であった。
しかし結果的には、担当のチエ子にはわたしの仕事よりお多福さんの仕事をがっつりやってもらうこととなり、仕事での教育など大してする機会がなかったのである。
わたしがチエ子にやっていたことといえば、「ブラックサンダー」なるチョコ菓子を、毎夜九時過ぎに気が向いたときに一個、やっていたくらいである。
はじめは「ありがとうございます」と殊勝な様子だったが、次第に、時間帯にはたと目が合うと、スッと片手を差し出してくるようにまでなっていた。
無言で要求するでない。 しかも、せめて差し出すなら両手で差し出せ。
まるっきり「餌付け」である。
しかも、しつけに失敗している。
何はともあれ、ほかの三人の新人を受け持った教育係と各管理職、さらに新社長のハチさんも同席の引き継ぎ報告会が開かれたのである。
当人たちがいないところで、あの手この手を駆使して当人らから聞き出した、或いは汲み取った、それぞれの個性や不安ややる気ややりたいことやりたくないことを、忌憚なく報告し合う。
次の担当がそれを踏まえた上の教育をし、彼女らを活かしてゆけるようにである。
やはり、ここでも皆が口を揃えていったのは、
「残業が多くて遅くて読めなくて、夜の約束や予定がいれられない」 「約束や予定どころか、気持ちを休める時間が一日で持てない」 「深夜営業のスーパーの、閉店タイムセールにせめて間に合う時間に帰りたい」
最後のは少々脚色したが、だいたいそんなものである。
過労で倒れた大分県も教育係だったのだが静養中で欠席であり、しかしそれに敢えて触れなくとも我々の口から次々とあげられる苛酷な勤務状況。
「なんのために自分がここにいるのかわからない」
と、涙した者もいる。
「自分だけ早く帰るのが申し訳ない気になる」
それでも夜九時過ぎだというのに、思ってしまう。
我々は無駄な仕事をさせる余裕など、ない。 それが「なんのために」かを話し、そのおかげで助かったことや感謝を、実感できるように伝えなければならない。
しかし、一部、それがかけてしまったらしい。
「誰かがやらねばならない雑務は、新人がやって然るべき」
たしかにそんな面があり、必要である。
その場で「ありがとう」のひと言は、慌ただしさにうずもれて忘れられがちである。
仕事はお多福さんので、わたしのはほとんどしてないが、一応、わたしが担当していたチエ子に訊いてみた。
「ブラックサンダーを、これからは二個ください。それならオッケーです」 「二回に一回に回数を減らし、一度に二個やろう。それでどうだ」 「え、ホントにいいんですか!?」
パッと驚きの表情でわたしをみる。 ここでお気付きの方もいるだろう。
「朝三暮四」
である。
……
猿に今まで、朝に四つ暮れに四つ、合わせて八つエサをやっていたのを、七つに減らさねばならなくなった。
飼い主が猿に説明する。
「明日からお前たちにやるエサを、朝に三つ暮れに四つにしなければならない」
猿たちはそろって不平不満をあげて大騒ぎになってしまった。
「わかった。それならば、朝に四つ暮れに三つ、でどうだ」
飼い主がいうと、
「今まで通り朝に四つエサをくれるなら不満はない」
猿たちは納得して静まった。
……
というような故事がある。
合計数は変わらず、ただ目先の数に惑わされてしまう。
そのからくりにハッと気が付いたようである。
「変わらないじゃないですか。むしろ二回に一回の回数がわからなかったら誤魔化されちゃうじゃないですか」 「誤魔化すようにみえるか」
しばしの黙考の末、チエ子は納得顔で答えたのである。
「竹さんの場合、「忘れる」ってほうですね」 「聞こえが悪いな。「覚えてない」と表現してくれ」
「忘れる」では間抜けに聞こえてしまうだろう。 「覚えてない」は、わたしの寛容さを表しているようにちゃんと聞こえる。
「はいはいそうですね」と、チエ子はサラリと納得してくれたようで、すぐに頷いてくれた。
わずか三ヶ月しかみてないが、素直に育ってくれてまことに嬉しい限りである。
もとい。
この現状を就任早々突きつけられたハチさんは、
「以後の業務は、とかく利益を保ちつつも身心損なわないような仕事の受け方、そして仕事の納め方を皆で気を付けてゆきましょう」
というしかないのである。
次に倒れるとしたら、という心配が派遣さんらの間で持ち上がっているらしい。
「ミスター。今日から少し、イジるのを控えるようにするから倒れんといてくださいね」
虎子さんがいってきたのである。
「あ。イジられない方が苦痛やいうならイジらせてもらいますけど」
ちょっと待って。 ちょっと考えさせて。
うーむ。
「はい。時間切れー」 「ちょ、そんな」
虎子さんは颯爽と去ってゆく。
むむむぅ。
イジられ過ぎるのは勘弁ならんが、イジられないまま過ぎ去ってゆくのも張り合いがないのである。
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