西村堅太著「人もいない春」
西村堅太。
この名前を聞いて、いったい心当たりのある人間がどれだけいれだろう。
わたしが昼休みに出かける毎に手にしている本に興味を抱き、何の本かを訊いてくる数少ない、いや唯一の人間である小金君でさえ、「誰ですか、それ」と首を傾げる。
ならばと、最近芥川賞をとってそのインタビューで話題になったひとさ、とヒントを出す。
「都知事閣下」発言のその前の方だから、と付け足してもまだわからぬらしい。
受賞の電話がきたとき、「今から風俗に行こうとしていたところだった」と、真顔で答えていたひとだよ。
「ああ」
あのとことんイッちゃった感じのひとみたいな作家ですね、とようやく思い出したようである。
どうやら小金君にとってのわたしが読みそうな作家とは、とても似つかわしくないらしい。
アウトローですね。 いやドロップアウトな感じかな。 いやいや、ドロップし過ぎもし過ぎの、アウトからも完全にはみ出してるでしょう。
どうやら西村堅太は、僅かなメディアに露出しただけで、これ以上ないほどの堕落男ぶりの印象を力強く観たものに植え付けたらしい。
「らしくないっすよ、竹さん」
小金君が言うには、アウトローとしてまた無頼漢としてわたしが読んでそうな作家は、伊集院静あたりであって欲しいらしい。
ちなみにわたしは伊集院静作品を読んだことがない。
読みたいと思うのは、故色川武大(阿佐田哲也)氏とのことを綴った「居眠り先生」ただ一作品だけである。
「金原ひとみとか谷崎潤一郎とか、およそそんなコアなものが好きでもあるんだぞ」 「変態、エロチックじゃないですか」
こら。 「イズム」と呼びなさい。 なんで「チック」じゃダメなんすか。 「チック」に思想はない。 思想がないのは文学ではない。 わかったか。
「またコムズカシイこと言いますね」
へいへい、とただ子どもをあしらうかのようにわたしの主張をやり過ごす。
こんな小金君でも、本を読んでいて話ができる貴重な数少ない人間のひとりなのである。
無下にはできない。
さてそんなヒドイ言われようの芥川賞作家の西村堅太であるが、確かにこれはヒドイ。
私小説的な作品「苦役列車」にて受賞したが、本作品もまた私小説である。
主人公の貫多は、筆者そのものの最低ぶりを存分に発揮しているかのようである。
いっそ気持ちがよい。
嫌味がない。
明日なんか関係ねえ、風俗の為にだけ給金を積み立て、日雇い日払いの仕事だけで生きてきゃ十分。
短気、嫉妬深い、猜疑心の塊、癇癪持ち、自分勝手、怠惰。
その純粋な結晶のような男が、貫多なのである。
好きにはならないが、嫌いではない。
本当の現実の臭いが、真っ直ぐに描かれている作品、いや作家のように思える。
わたしもあの時期に、もしも一歩踏み出していたら。
確実にそちら側の世界の人間になっていた。
上野公園で暮らす人々が決して他人ではないことを、見掛ける度に常に思っていたのである。
預貯金を食い潰してゼロになるその直前に求人で拾われた。 つまり自ら応募したのではなく、登録していた求職票をみた方が、声を掛けてきてくれたのである。
さらに、そこでリハビリに近い状態の就業環境を自ら作ることを許されるという、稀有な偶然に出会えただけに過ぎない。
どれだけ他力本願の、どこへどう転がるかわからない道筋をきたことか。
ということである。
「たられば」の誇張した話だと、思われるだろうが、現実の話である。
たしかにわたしは、それを「我が身の現実にあり得る」こととして、考えた。
そうなったら、わたしは作品中の貫多のように、図太く、我を貫き通し、「泥水でもそれが我が都」と居直れやしないだろう。
しかし。
できれば居直りたくもないところの話ではある。
芥川賞作家として異色である西村堅太という人間は、作家としても異色であり、もっといえば、人間としても異色である。
作家として、社会的にこの先も生き残ろうがどうでもいい、という本人のひねくれ加減が、ツボにハマる方もいるだろう。
わたしのツボにはハマらなかっただけである。
ああ、しかし。
ここまで居直り、己に素直に振る舞えたらどれだけよいか。
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