「通潤橋」に着いたのは、夜九時を過ぎた頃であった。 店舗施設は閉店時刻をとうに過ぎており、従って当然のごとく辺りは真っ暗である。
激しい雨、雨、雨。
駐車場にはミニバン、ワゴンの数台が既に泊中のようで、辺りはただ雨が車を叩く音しかしない。 動くものといえば、わたしの車だけである。
激しく叩く雨音の静寂を破らぬように、そろそろと車を停車する。
「通潤橋」の道の駅は、事前に車中泊にお勧めの道の駅ということで調べてあったひとつだったのである。
しかし様子がおかしい。 こんなにうすら不気味なはずがない。
そうか、それもこれもこの激しい雨のせいである。
不気味さを払拭しようと、それでも灯りが外へだだ漏れしないようにLEDランプを慎重に点けると、ぼうっと白っぽい球が車内に現れた。
さあ、楽しい工作の時間だ。
手早く片付けなければならない。 早速、わたしはアルミシートを出し、窓の幅にナイフで切り分けるけ、それを両側の窓に張り付ける。
寝床は後ろの席である。 フロント用のサンシェードを後ろのガラスに張り付けると、これで三方の目隠しが完成である。
なぜ車内の三方だけなのか。
アルミシートなどで四方を完全に目隠ししてしまうと、不審車と思われて警らのお巡りさんに注意されてしまう恐れがあるからである。
次に前席のシートを立てて揃え、ワイヤー付きのクリップを渡してバスタオルを暖簾代わりにぶら下げれば完成である。
ふわっはっはぁっ。
すぐさま横になり、天井を見上げながら腕組み高笑う。
最後の「ぁっ」の余韻が虚空に吸い込まれてゆく。 たちどころに、地上のあらゆるものを叩きつける雨音の濁流にわたしはひとり飲み込まれた。
パソコンを点けると、やはりぼうっと白っぽく照らし出される。
気を紛らせるつもりで明日の予定を確かめようとしたのだが、どうしても、むずむずと肝が落ち着かないのである。
「ブル、ブルン」
突如キャンピングカーの一団が、エンジンを始動させたのである。
「プ、プッ」
ご丁寧に、控え目ながらもクラクション一笛、夜闇を走り去っていったのである。
残されたのは、わたしの他に一台のワゴンのみ。
動悸が激しくなってゆく。
なぜ、敢えての警笛。
まさか、この豪雨で川が増水し、注意報でも出たのか。
いや待て。通潤橋は街のすぐそばにある。 近隣の住民が、もっと騒がしくなるはずだ。
あちらのワゴンは、そういえば中にひとがいただろうか。 無人ではなかったか。
建物の中にいる住民と、なにもない駐車場の車の中のわたしを一緒にしてはならないのではなかろうか。
雨が吹き込んだのか、じっとりとうなじが濡れてしまったようである。
違った。
汗だった。
こんなときにわたしが選ぶのは、
「えい、寝てしまえ」
である。 寝て、起きたら結果がわかる。
「下手な考え、休むに似たり」
である。
そして、雨で視界などなきに等しい外部のことをことさらに考えるのはやめるべきである。
わからないものは、決してわからないのである。
そうしてわたしは、暗闇に目を閉じる。
雨は降り続く。 そして、朝は来る。
さあ。 通潤橋の朝である。
雨はすっかりやんでいる。
道の駅に朝がきた。 わたしにも朝がきた。
明るくなってはじめてわかったが、わたしがいた駐車場にはもう一台キャンピングカーが泊まっていたのである。
どうやらわたしが寝たあとに、やってきたらしい。
朝六時過ぎ。 わたしの目覚ましが、平日に鳴りはじめる時間である。 しかし道の駅の開店時間はまだまだ先である。
そしてもうひとつの駐車場には、なんと三四台ほどの車中泊がいたのである。
バーナーで湯を沸かし、優雅に朝の珈琲をたしなんでいる者もいる。
目の前には「通潤橋」。
教科書にも載っていたあの「通潤橋」である。
朝早い時間なので、観光客の姿もない。 しかし見学は自由らしい。
ずかずかとわたしは橋の下に近付く。
石の建築は、美しい。
そしてどうやら橋の上に上がれる小路を見つけ、これはゆかずにおられるものかと上がってみたのである。
「橋の上は舗装工事をしておりません。すべったりつまずいたりしないよう、十分、ご注意ください」
なんとワイルドな。
踵のある靴を履いた女性は、どうか上らぬよう促したい。
手摺もなにもない。 ふざけあいでもしたら。
「わっ!」 「うわっ……」 「ふふふ、おどろいた?」 (わぁぁぁ……)
即落下である。
どうか、甘い恋人たちもその戯れは差し控えてもらいたい。
しかしわたしは、早朝、ひとり橋の真ん中に立ったのである。
誰も、注意を払っていない。 両手を広げ、天を仰ぐ。
ふうぅ……。
独り占めである。
なかなか、美しい。 気分がよい。 昨夜の心配は、小心者がなす杞憂であった。
雨はもう通り過ぎた。
いざ、高千穂峡へ。
高千穂峡は高千穂峰のついでに行くかやめとくかくらいで、本来の目的地としては重要視してなかったのである。
立ち寄れたら、くらいのつもりだったのだが肝心の高千穂峰が叶えられなかったので、「峰」が駄目なら「峡」に行こう、と安直な選択肢を選んだのである。
ついでに、国見ヶ丘も行ってみたい。
雲海の絶景が有名なところである。
知識を知らぬと誤解されぬよう付け加えておこう。
雲海の絶景とは、前日の気温差等の絶妙な環境条件が揃ってはじめて、盆地に雲がたまって雲海となるのである。
だいたいが秋に、それらの条件がたまたま重なることがあるくらいで、初夏のこの時期に見られるはずがないのである。
ましてや前日は朝方までの大雨である。
見られるわけがない。
であるから、万が一もない可能性のために夜中のうちに高千穂は国見ヶ丘までたどり着き、明け方をそこで迎えてみようとは思わなかったのである。
まずは高千穂峡の道の駅へ行き、ガイドマップをわけてもらう。
国見ヶ丘、高千穂峡、高千穂神社をぐるっとまわっても、夕方前に熊本市街へ向けて十分に出発できそうである。
国見ヶ丘は、なかなかの景色であった。
それ以上に、茶屋のおかみさんが、とてもよいひとであった。 お茶を出してもらい、しばらく高千穂の「夜神楽」や、もちろん雲海のことも、すっかり話し込ませていただいた。
今度是非、夜神楽を観に来てみてくださいな。
なるほど、今度は高千穂峡と夜神楽をセットで観にくるとしよう。
さて高千穂峡だが、ここは地質的にも非常に面白い。 断層が水平と垂直に重なっているのがよく見えるのである。
それだけではない。
自然の力だけによって削り出された神秘的かつ美しい峡谷が、圧倒的なまでに堪能できるのである。
峡谷の先に「真名井の滝」というひとすじの滝があり、船を借りてその下までゆけるのである。
せっかく高千穂峡までゆくのだから、ようしわたしも船を借りてみようか。 同乗者はなし。 ひとりで、漕いで、えっちらおっちらと。
想像だに恐ろしい光景である。 入水自殺でもするつもりか。
しかし。
煩悶しつつ、現地に着いてみると、
「大雨で増水しているため、船は受付を中止しております」
との案内が出ていたのである。
やはり、わたしは何かを持っているようである。
すべからくがなるべくしてなっているかのようである。
なるほど、岩の裂け目のようなところを奔流がゴウゴウと音を鳴らしている。 見つめていると、吸い込まれてしまいそうである。
ひとり船の地獄絵図を神々の計らいでまぬがれたわたしは、遊歩道で滝の先を目指し、着いた茶屋で焼き団子をいただく。
体力が回復したら、さあ、復路である。
ここもひとりでなくなったら、またそのときにおいでなさい。
まるでそう言われ続けているようである。
余計なお世話である。
ひとりだからこそ、勢い気儘にこうしてやってこれたのである。 でなければ、こんな神社ばかりを回って歩く旅など、誰が付き合おうというのか。
さあ、引き返して高千穂神社である。
わたしは、気儘に、ズンズン歩き出す。
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