高千穂峡から熊本市街へ今夜の早いうちに移動し、宿に入らなければならない。
車案内によるとおよそ三時間かかるらしい。
夜八時頃には着けるだろうと見当をつけ、高速道路のサービス・パーキングエリアに寄り道しながら、のどかにハンドルを握る。
天気はもう、すっかり上り坂のようである。
窓に飛び散る雨垂れもない。
これがもう二日ばかし早ければ、と残念に思う。 雨が降っていなくても、霧島の火山活動は変わらず活発であっただろう。 雨で増水してなければ、真名井の滝で船を借りるか散々悩み、迷走暴走していたかもしれない。
それを考えれば、過ぎたるは及ばざるが如し、である。
さて本来なら、熊本となれば阿蘇山の「草千里ヶ浜」を明るいうちに眺めにゆこうと思っていたのである。
できたら道の駅・阿蘇に車中泊して朝の清々しい空気と景色でも堪能しようではないかと。
またカドリー・ドミニオンでヘリを借りて、カルデラを見下ろしてみるのも一興かと。
もちろんそれは、桜のエヴァ娘がそうしたように、である。
しかし、男は「城」である。
ふと思い立ってしまったのである。 どうやらわたしは、神社から仏閣へと興味をうつさず、そちらに枝葉を広げようとしているようである。
宿をとるとき、
「熊本城が目の前」
という言葉に、衝動を乗っ取られてしまった。
なにせ熊本城は、夜間は照明に照らし出されている。
ああ、なんと雄々しき姿だろう。 明日は午前たっぷりと時間をかけてまわってやる。
宿は本当に、熊本城の真横だったのである。
独り占めの満足感が、なぜだか胸に穴が開いたような、ピュウピュウという風音を強く反響させる。
これは気管支炎かぜんそくか。
吐く息が白っぽくけぶってないから、きっと大丈夫だろう。
寝て起きて朝になったら、きっとなんでもないに決まっている。 熊本の夜に浮かび上がる熊本城を、ぐるっと外周をまわってみる。 宿のボウイに、周辺の店案内図をあるだけ全部渡され、ポケットにねじ込んで出てきたままであった。
熊本といえば、馬刺である。 馬刺といえば、酒である。 酒といえば、下戸である。
時間は既に十時を回っている。 そんな時間なので、開いてる店は下戸のわたしにとってなかなか敷居が高いのである。
よし。 明日のランチタイムに狙おう。
そう決めたのである。
そして、翌日の朝食は宿の食堂であった。 それがまた、遮るものなく、熊本城が目の前に見えてしまうのであった。
隣テーブルの女子が、きゃあきゃあ感激の声をあげて、うんうんと男子も激しくうなずいていたのである。
わたしは、ひとりである。
しかも、ビュッフェ形式の罠にはまり、なんとも珍妙な取り合わせで山盛りになった皿を前に向き合っていたところであった。
見事な和洋折衷。
後でまた取りに行けばよいだろうにとわかっていても、つい食材たちの色目に負け、ごちゃごちゃになってしまうのである。
これは、見た目がなかなか恥ずかしい有り様である。
もしも、隣テーブルの恋人たちが
「写真撮ってもらってもいいですか?」
と頼んできたら問題である。
急いでスクランブルエッグとベーコンとウインナーを口に詰め込む。 早く皿の上を芋の煮物と揚げだし豆腐とひじきだけにしなければならない。
なぜなら、主食に納豆ご飯をしっかりよそっていたからである。 すっかり和食の様相へと変えてしまう。
しかし飲み物は珈琲である。 それはよしとしよう。
そうして準備万端のわたしであったが、彼らはそんなひとりのあやしいテーブルに座るわたしに気を使ったようで、写真の催促をしたいようでしかし我慢してくれたようであった。
食堂からテラスに出られるので、食後にわたしはさっさと出てみたのである。
おお。 素晴らしい。
何が素晴らしいのかまではわからないが、とにかく素晴らしい眺めであった。 しっかり堪能してテラスから室内に戻ろうとすると、隣テーブルだった恋人たちとバッチリ間が合ってしまった。
明らかに急ぐ様子もなく中に戻ろうとするわたしと、自分たち撮りをひと通り済ませたらしい彼らと、他には誰もテラスにはいなくなっていたのである。
ああ、城をバックに仲睦まじく寄り添うふたりをファインダーにおさめるわたし。
という具体的な想像までして覚悟を決めたのである。
彼と、パタリと目が合った。
ペコッと軽く会釈をすると、彼も同じようにペコッと軽く会釈を返してきた。
わたしは「さあ、来るならこい。きっちり納めてやるぞ」というつもりだったのである。 しかし彼はどうやら、 「また一緒になっちゃいましたね」 「いえいえどういたしまして」 「人前でベタベタして不快な思いをさせたりしませんから安心してください」 「食事中のおふたりの会話も、なかなか節度と礼節を守ったものてのご様子」 「いえいえ、どうしてどうして」 「では、わたしはお先に。おふたりはどうかごゆっくり。ごきげんよう」 「ごきげんよう」
と交わしたつもりか、つい、と城に目を移したのである。
熊本城の朝は、なかなか清々しい気持ちを味わわせてくれた。
これから荷物をまとめて部屋を引き払わねばならないという慌ただしさではあるのだが、清涼な風がそんな有象無象を吹き払ってくれた。
ようし、時は来た。 いざ、本丸へ。
|