鶴は千年、生活下手

2002年11月11日(月) うんと昔の高校のこと

昨日の「ぷらむ短歌会」の休憩時間に聞かれたこと。

高校に、同じ中学から3人だけって、プレッシャーはなかった
か、だったと思うんだけど。

もう、28年も前のことなんだね、高校入試。
わたしの故郷山形でも、当然学区は別れていた。
わかりやすくいえば、庄内地方の南北、内陸地方の南北かな。
はっきり覚えていないのだけど、あの高校には北は新庄から南
は上山あたりまでだったと思う。

で、当然山形市内の中学校からは沢山入学する。
もっと離れた市町村からは、おそらく中学校から1〜4人程度
ではないかと思う。
誰もが中学校のトップクラスからやってくる。
当然、高校に入ったら同じくらいの学力の生徒がたくさん。
ここから、本当の学力の差が出るんだと思うよ。

高校入試のプレッシャーってはっきり言って、なかった。
だって、入学できると思い込んでたから。(笑)
模試で充分入学できる位置にいたから、そう思い込んでいた。
だいたい、受験勉強なんて、問題集1冊やっただけだったし。
もともと、小学校、中学校と、あんまり勉強しなかった。
授業をきちんと聞いていれば試験もできたし、成績も良かった。
覚える事は、その日の内に覚えてしまい、映像で思い出す。
変な子だったの。あの教科書のこの辺に書いてあったなって。
入試だってそんな調子だった。

でもね、一緒に入った二人はそうじゃなかったんだと思う。
一生懸命地道に勉強したんだと思う。
だから、彼らは思わず泣いてしまったり、わたしと抱き合って
喜んだりしたんだと思う。
わたしと抱き合って喜んだ彼は、言ったもんだ。
「おれは一生懸命勉強したんだから、受かる自信が有った。」
偉いよね、彼ら。
だから、医者になったり、研究所に勤めていたりするんだろう。
医者になりたいと言っていて、本当に医者になった泣き虫の彼。
家業が洋品店だったからか、化粧品メーカーに勤めた彼。
わたしは、中学の先生になりたいと、漠然と思っていただけ。
それも、わたしが両親の離婚で苦しんでいたときに、担任が全
く気づいてくれなかったというだけの理由だった。

わたしは、中学校まで地道に勉強するなんていう習慣ができて
いなかったから、高校に入ってからの戸惑いは大きかった。
わからないところがわからない。
毎日の復習予習が終らない。
今まで味わったことの無かった感覚だった。
一緒に列車で通う他校の生徒(中学の同窓)の宿題は、駅に着
くまでの短い時間で全部解けるのに、自分の宿題は1問も解け
ない。 なんか、切なかったね。
でも、そんな思いをしなければ、わたしはいつまでも何の努力
もしない、挫折も知らない大バカ者だったと思う。
わからないということの辛さを初めて知ったときだったもの。

転校前の中学で、同じ高校に入ろうと約束した男子達は、高校
のランクを一つ下げていた。
高校まで遠いわたし達は、山形市内の高校を受験する生徒全員
で前の日から宿泊するのだった。
たまたま前の中学の生徒も同じ宿で、彼らがランクを下げたこ
とを知りショックを受けたのを覚えている。
たしかに、ランクを下げて入れば、入学した後に楽なのだろう
と思う。(大バカ者は治らなくてもね。)

だが、
県内でトップの高校と言われ特別視されようとも、
下から数えた方が早い成績でも、
ほとんど女子がいなくても(今は女子の方が多いらしい)、
体育で男子と一緒に柔道を教わったりしていても、
授業中に割れた天窓から雪が降ってくるようなボロ校舎でも、
わたしはあの高校に入って良かったと思っている。
そんな高校の同窓会、今週の金曜日だ。(どーしよーっ)

土曜日のNHKで、鶴岡第三中学校が取材されていた。
2年生から導入される、習熟度別学習。
ゆっくり進む子も、早く進む子も、わかるっていうことはほん
とに楽しいことなんだよね。
安易に中学の先生になりたいなんて思っていた自分が恥ずかし
くなったし、なんだか涙が出そうだったけど、夫が見てるので
我慢した。

 中学生に戻ってやり直すことを望まねばならぬ やな奴だった
                             (市屋千鶴)


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