今日は、昼から姉の家に行く。
とても気にかけていた人が戻ってきてくれたとき、人はどんな 反応をするのだろうか。
わたしにとっては、なんというか憧れと共に見守っていたい人。 わたしよりも後から短歌を始めたのだが、実にいい感性を持っ ている人で、その視点、捕え方、飛躍の仕方、どれをとっても 自分には絶対に出来そうにない歌を詠む人だ。 彼女の文章にもやっぱり彼女らしさがあって、短歌以外の文章 を読んでいても、感心したり、ぐっときたりすることが多い。
短歌を真剣に追い求めているというか、つきつめて考える人に は、短歌はかなり辛い文学といえるんではないか。 わたしのように、気楽になんでも歌にしてしまい、歌人なんて 呼ばれるのはまっぴらごめんだと思っているような人間は、歌 について追求するとかしない。 ただ、そこに共感するものがあるかどうかしか、考えないこと が多い。 だからこそ、すんなり読んでイメージが浮かび易い歌をと心が けたりもする。 歌だけでイメージできそうにないものには、すんなり文章をつ けてしまったりもする。 こんなこと考えて作りましたって。
だけど、真剣に短歌に向かい合っている人は、いつも辛いので はないかと思えて仕方ない。 気に入って歌を作れたときの喜びとか、気に入った歌に出会え たときの喜びとか、そういうもの以上にできなかったときの辛 さの方が大きくなってしまうのではないかと。 だからこそ、これはという歌に出会えたときの喜びも大きいの かもしれないのだが。
その人から学ぶことはいっぱい有るんだけど、学びたくないこ とはただ一つ、根を詰めすぎること。 生き急ぐというのではないが、生きている内に何かしておかな くてはと思う気持ちはわからないでもない。 だから、力いっぱい進んでしまうのだろう。 お願いだから力を抜いてと、ちょうどいいタイミングで言うこ とが出来ずに、少し遅れてただ見守るしかなかったわたし。 彼女の歌を目にすることが出来るのがとてもうれしくて、ただ の一ファンになっていることが多い。
わたしの姉のように、先が有るようで見えない生活をしている 場合は、今の内に何かをしておかなくてはという意識よりも、 まず今を生き抜くことが大事だと考えるようだ。
いつ命が終ってしまうかもしれないから、無理をしてでも何か をしておくのではなく、姉にとってはとにかく生きていること が最優先なのだろう。 少しでも生きていられる間は、生きていること。 それが姉の今の課題なのだろうと思う。 姉本人だけでなく、義兄や姪や甥、身内のみんなにとっても、 とにかく生きていてくれることが大事なのだ。
いやね、別段、今すぐどうのこうのという状態で毎日暮らして わけではないし、おなかが痛いといって救急車で運ばれたりし ていても、入院するほどではなかったし。(^^;
そんな人間を身近に持っていると、自分までとにかく少しでも 夫と一緒に生きていられるようにと、それだけで満足してしま ったりする。 糖尿病をコントロールするのだって、夫よりもずっと先に命を 終らせてしまわないようにだし。
別に、わたしの場合、姉のように体が弱いとかいうことはなく、 同じ病気を抱えながら、食事制限はしているものの、普通に暮 らしていられるのだから、もう少しがんばってもいいんだろう と思うのだけどね。(^^;
肩の力、抜けっぱなしである。
いつまでも生きていられる訳じゃない 今生きている正月三日 (市屋千鶴) 昨年のお正月は、4日に姉が手術をしたのだった。
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