鶴は千年、生活下手

2003年02月25日(火) 吹雪と神経痛

昨日の雪で思い出したもう一つのこと。
それは、わたしが上京した年の秋のことだった。

ひと夏ずっと冷房のもとで過ごすという初体験をしたわたしは、
9月の最後の週に、左足が痛くてだるくて歩けなくなった。
最初は、腰の骨がきしむような感覚だったが、そのうちに左太腿
はまるで強度の筋肉痛のときのようなだるさになってきた。
おかしいなと思って、となりの駅の整形外科に行った。
駅から整形外科までは歩いて5分くらいだったが、左太腿が痛い
わたしにとってはとても長いものに思え、たどり着いた頃には、
立っていられないくらいのだるさと痛みになっていた。

診察を受け、レントゲン写真を見ながら説明を受けた。
第3腰椎(と言ったと思う)、この3番目の骨をレントゲン写真
で見ると、台形に見えた。
本来は長方形(やや横長)になっているはずなのだ。
この歪みが神経を圧迫して、痛いのだと言われた。
座骨神経痛という診断結果だった。

アパートに帰ってから母に座骨神経痛のことを電話で話した。
母は、こう言った。
「かあちゃん、貧乏だけがらお前さあだらすいズボンも買って
 やらんねけがらなぁ。
 吹雪ぐどごば、ズボン一枚であるがへださえて、神経痛なの
 なったんだべちゃねや。」
そう言って、電話の向こうで母が涙声になっていた。
訳すと、
「かあちゃん、貧乏だったからお前に新しいズボンも買っては
 やれなかったかなねぇ。
 吹雪くところを、ズボン一枚で歩かせたから、神経痛なんか
 なってしまったんだろうね。」
と、こうなる。

母を二人暮しになっても、食べるものに特に困らなかった。
それはお米だけはもらって食べられたからである。
中学3年で、ソフトボールの部活を引退したわたしは、案の定
太ってきていた。
転校先の制服は、上着はブレザーで下は冬はスラックスだった。
上着は一番大きなサイズで、ぴちぴちだったし、スラックスも
次第にきつくなっていった。
それでも、新しいスラックスを買うことができなかったから、
ズボン下を履かせてやれなかったというのが、母の涙の原因な
のだった。

わたしが、いくらそうではなくてこれは冷房の影響と、体重が
かかり過ぎるからなのだと言っても、母の悲しみは消せないの
だった。
わたしは、なんだか親不孝をしてしまったような気がして、母
に申し訳なくて仕方なかった。

ほぼ、寝て暮らした一週間だった。
その頃、わたしは従姉と住んでいて、一人ではトイレに立つの
も辛いわたしを従姉が支えてくれた。
一人では、パンティすら履けなかったのである。

今でも、新年会やら暑気払いやらで、姉や従姉とその話をする
ことがある。
感謝と切なさの入り交じった思い出である。

中学校に通う時に毎日吹雪いていた同じ道を、高校生のわたし
は、冬の下宿先へ帰るために歩いた。
母は、わたしの着替えの入ったボストンバックを持ってくれて
わたしの後ろを黙って歩いていた。
どうしようもなく、学校に行きたくなくなるのは、冬の日曜の
そんな時だった。

 吹雪くなかバスターミナルまでを行く我の後ろで母はうつむき歩く
                           (市屋千鶴)


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