それはもう、いまから40年も前のことになてしまった。
2月10日は、決して忘れられない日だ。 父の失踪を母から知らされた日だからだ。 吹雪のなか、幌のジープに乗って、姉の下宿先まで行く道すがら のことだった。 母は、わたしを子ども扱いせずに、全てを話してくれた。 父の失踪のこと、一緒に消えた女性がいること、借金があること、 祖父と祖母には知らせていないこと、母の実家が保証人になって いること、などなど。 14歳のわたしは、かなり冷静に聞いていたし、悲しいとも思わ ずに、それは大変な事態であると認識しただけだった。
あれから40年も経過したのだとふと思う。 取り乱さなかった14歳の自分を褒めてやりたいとも思う。 転校しなくてはならないことも決まり、いったんは東京の日野市 の中学校に転校の手続きをしたが、母の市営住宅入居のために、 わたしは元の中学校に戻ってから、今度は同じ市内の中学校に改 めて転校の手続きをとった。 その間、唐草模様の風呂敷に包まれたわたしの教科書達は、東京 と山形の間を持ち主と共に行ったり来たりした。 なつかしい唐草模様の風呂敷。 教科書が重くて、少し破れかけていた。
そんなこんながいろいろ身に降り掛かっている間、わたしは誰に も相談もしなければ、転校するという報告もしなかった。 誰かに相談してもどうにもならないことだったし、転校するのは 決まったことで、直前までみんなとは普通にしていたかった。 まあ、転校と言っても同じ市内なんだしと思っていたが、これが どうして、学区の境目はなかなか超えることができない見えない 壁のように感じたものだった。
わたし達姉妹は、生まれ故郷を捨てたのだと思っていた。 自分から出て行ったものは、おいそれと戻ることはできないと、 ずっとそんな風に思って自分で壁を作っていたようだ。 まあ、かなりのスキャンダルで故郷を出たのだから、そこに戻る のはけっこう勇気の要ることだったのだ。
姉の家に居候していた頃、小学高学年の甥っ子があまりに能天気 なので、苛立ったことがあった。 自分はその年頃に、母にお前は置いていく宣言をされたりして、 いろいろ思うところがあったから、能天気に生きていられる甥が 羨ましかったのかもしれない。 そのことを姉に言うと、悩むことなんか無ければない方がいいと、 親はそう思うものだと言われた。 いま、10歳の子の親として思うに、やはり小学生で深刻な悩み を抱えるのはかわいそうだと思う。 しかし、悩みを乗り超えて成長することも確かだ。
40年前の自分に対して、お疲れさまだったねとねぎらってやり たい気持ちだ。
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