今月の終わりには、55歳になる。 歳を重ねると、細かいこだわりは少し増えるが、大まかなところ であまりこだわることが無くなっているような気がする。 特に、失敗したこととかはほんの小さなことでしかないと思える。
透析のたびに、この間に何かあったらというかすかな不安を抱え ながら横たわっているわけだが、そうなると、命に関わることで ない限り、自分のことでくよくよ思い悩むことはばからしく思え てくるのかもしれない。
10歳の息子にとっては、失敗はどんなに小さなことでも、自分 がダメな奴に思えてきてとても落ち込んでしまうのだそうだ。 昨日は、グループ療育の日だったのだが、失敗するとかっこ悪い と思うかどうかという話しで、他の人が失敗するとかっこ悪いと 思うが、自分が失敗したときは、かっこ悪いと思うと悲しくなる のでかっこ悪いと思わないようにすると発言したそうだ。 そうそう、まずはそうやって少しずつ、失敗はかっこ悪くないと 思う練習をすればいいのだ。 だんだんと、他の人の失敗もかっこ悪いと思わないようになれば いいと思う。
自分が10歳の頃は、なんか悩みが大きすぎて失敗がどうとかを 深く考えずに、人に必要とされる自分を作り上げようとしていた ように思う。 夫に出会うまで、人に必要とされることをとても追いかけていた 部分があり、それが私生活の不安定さにつながっていた。
息子の場合、必要とされるかどうかまで思い至るようなことも無 く、一人っ子である以上、他の兄弟と比べられることも無い、 それなのに、失敗は自己の完全否定でもあるかのように落ち込む。 失敗でないことも、たとえば、両親や先生に注意されることや、 クラスメイトに指摘されることとか、そういうことも失敗と同じ ように感じるようだ。 注意されることや指摘されることは、失費とは違うということを 何度も何度も言い聞かせる。 失敗だってかっこ悪い言葉なりじゃないと言い聞かせる。 歳を重ねると慣れてきて楽になることもあるが、逆にいろいろな ことがわかるようになってかえって辛くなることもあるのだ。
誰だって、自分と向き合わなければならない時が来るが、息子の ような子ども達は、自己認識が自然に発達しないためか、小さい 頃から自分と向き合う訓練をしている。 失敗したときの自分を思い浮かべることは、自己否定の追体験で あるから、かなり辛いことのはずだ。 辛くなったら、別の楽しいことを思い浮かべて回復しつつ進む。 付き添っている親も、その表情から読み取れる辛さを軽減してや りたいと思いながら寄り添っている。
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