鶴は千年、生活下手

2014年12月26日(金) 羨望と苛立ちと理解と

自分が長女だった母親は、上の子に厳しい傾向があると思う。
わたしの姉もそうだった。
自分が子どもの頃に、お姉ちゃんだから我慢しなさいとか、お姉
ちゃんだからちゃんとしなさいとか言われて育ったからなのか、
自分の上の子にも同じことを要求する。
お姉ちゃんだか、お兄ちゃんだから。
でも、自分だって、そう言われてさびしかったことがあるはずだ。
自分が我慢してきたのだからあなたも我慢しなさいと、無意識の
うちにそう考えてしまっているのかもしれない。

考えてみれば、子育てというのは自分がどう育ったかということ
にとても影響されやすいのだろう。
してもらわなかったことをしてあげるのは難しい。
親にされて嫌だったことを我が子にはしないでいようと思うのは
たやすいが、衝動的に同じことをしてしまっていることに気づく
ことも多い。
自分が我慢してきたから我が子にも我慢しろというのは、それは
全く理論的ではないのだが、陥りやすい。

わたしは、小学校5年生の頃は、母に置いて行くよ宣言をされて、
子供心に悩んだ時期だった。
甥っ子が小5の頃、あまりに能天気な甥を見ていて腹が立った。
自分がその頃にはあんなに悩んでいたのに、こんなに何も考えて
ないのかと思うと、羨ましかったのだろう。
その羨望が苛立ちになったのだ。
自分には持つことができなかった子どもらしさ。

わたしが姉に対して、能天気で何も悩みが無いんだよねと言うと、
母親からすれば我が子に悩みなんてない方がいいものよと答えが
かえってきた。
母になった今なら納得する。
息子が、何も考えていないようで、いろんな困難を抱えていたこ
とに気づかされたときなんかね。
感覚過敏は、本人が申告してくれないと分からないことが多い。

自分が出来たことは我が子も出来るだろうという感覚は、息子の
ような子どもを持つと早い時期から持たなくなる。
しかし、それでも高機能自閉症であることを知らなかった頃は、
例えば呼ばれたら返事をするとか、自分がそう言われてしつけら
れてきたことが、なぜ出来ないのかととても頭にきたものだ。
頭にきて、許せなくて、まだ2歳の子どもに向かって激しく叱り
つけたりした。
これも今ならわかる。
返事をしないのは、わたしの声が聞こえていなかったからだと。
まだ2歳の子どもは、話ができるからといって、話が通じている
とは限らないことを。
母の言うことがわかるが、それと理解して実行することが出来る
のは違うということ。

たとえ、おなかの中ではぐくみ、産んで育てている我が子でも、
自分と違う全く別の個人であることを理解するのは少し時間がか
かるし、その子が生まれてからの1、2年で経験することがどれ
ほど変化に富んだすばらしいことの連続なのかを想像するのも、
また少し時間がかかるのである。

ずっと上ばかり見ていたものが、寝返りが出来るようになって、
視野が変化する。
いろんなものが見えるようになる。
寝返りで移動だって出来る。
お座りすれば視点が高くなる。
つかまり立ちできれば、さらに視点が高くなり、視野が広がる。
歩き始めればなおさらだ。
新しい世界が、毎日、子どもを待ち受けている。

そんなことに思い至ることが出来るようになるのは、我が子を追
いかけなくても良くなった頃であるのが、残念なところだ。

自分に無いもの、持てなかったものへの羨望と、苛立ち。
そして、それぞれが別の個人であることへの理解。
そうやって、親も育つのであろう。


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市屋千鶴 [MAIL]