今日は、教授と話をしてきた。それで、自分の方向性がずれていることに気づいた。これで何度目だろう。何度も何度もずれては軌道修正しているような気がする。研究室に来たら、最初にノートを見直すようにしたほうがいいのかもしれない。
教授と話をするときは、ずいぶんと緊張してしまった。内容がまとまっていないのもあったし、時期的に遅れているというのもあったし。しかし、教授は特に怒りもせずに、冷静に問題点を指摘してくれた。それこそ方向性がずれていたので問題点だらけなのだが、丁寧に指摘してもらえて助かった。ようやく目が覚めた気がする。とは言え、またすぐに眠ってしまう気がするが…。評判の悪い教授だが、指導力は確かなもののようだ。ただ、できればそれを積極的に発揮してもらいたいものだが…。まあ、それは贅沢というものだろう。卒論は、僕が自分自身で何とかしなければならない問題なのだ。基本的には。
あらゆる点で、問題は山積みになっているままだ。前学期にはJavaの勉強をしてきたが、そもそも卒論ではJavaを使わないし。ほかの研究室でみんなが基礎を学んでいる間、僕は完全に的外れなことをやっていたわけだ。その結果、船長の情報体系を整理しなければならないのに、そもそも船長とは何ぞや、ということを知らない。かと言ってそれを調べているひまもないから、自分で何とか考える必要がある。なぜか知らないが、教授もそう言っている。普通は自分の頭で考えるのではなくて、調べるものだと思うのだが。
それにしても、ちゃんと人としゃべったのは何週間ぶりだろう。22日に飲みに行ったときもそれなりにしゃべったが、頭を研ぎ澄ませて議論をしたわけではないし。昔は毎日嫌と言うほど先輩と議論していたのに。懐かしい思い出だ。考えてみれば、それがあったから当時の僕は、いつも割と物事をよく考えていたのだと思う。人間、きっかけがなければ物事を考えることなんてないだろう。ちなみにその先輩は、今はオンラインゲームにはまっていて、ほとんど会話をすることもなくなってしまった。その先輩自身、そんな状況が問題であることを認識しているようだが、解決する意欲を持っていないらしい。かと言って、僕には何もできない。僕だって同じような状況だし、世の中に希望なんて持ってはいない。今日は比較的明るい気分だが、それでもこの先の人生は転げ落ちるだけだという認識に変化はない。
それこそ僕の卒論ではないが、幸せのモデルが見えないのだ。ちょっと昔なら、結婚して、立派な企業に就職して、子どもを養ってという家族像があっただろう。しかし、現代においてそんな生活が幸せだとは思えないのだ。社会の制度的なものもあるし、第一、僕に複数の人間、特に子どもを養っていけるだけの能力があるとは到底思えない。
僕はともかくとして、その先輩は、今すぐ社会に出ても優秀な人材として活躍することができるだろう。頭がいいのは確かだが、何よりも行動力がある。考えるだけでなく、実行することができて、そして、実行することの価値を理解している。僕は、この点をまったく理解できていない。まあ、それは僕の能力の低さに大きな原因があるのだが。すなわち、僕が何かをしたところで、それに価値はないだろうという感覚がついて離れないのだ。何かをするのであれば、価値のあることでなければ意味がない。しかし僕の価値観において、僕のなすことに価値はないのだ。
また、先輩といろいろ話をしてみたいものだ。しかし、今後はもう、そんな時間はないのだろうな…。