最近、自分の考えがかなり制約されていると強く感じる。って、こんな書き出しばっかりだなあ…。
ほとんど無意識のうちに、あれはやっちゃいけない、これはやっちゃいけないといろいろ考えているのだ。特に卒業研究で顕著になっている。僕が書いた文が、読んでも理解できないとか言われて、あれもダメだ、これもダメだとかやっているうちに、自信を失って何もできなくなったのだ。
大学の構内を、デジカメを持って少し散歩してみた。このとき、本当に強く、自分が制約されているということを感じた。別に、大学の構内で誰がどこで写真を撮ろうと、問題はないはずだ。ましてや、ただ歩くだけなら自由のはずだ。にもかかわらず、建物の屋上に出たときは、建物の中から聞こえる物音にビクビクしていた。悪いことをしているわけではないはずなのに、何かとがめられるのではないかと恐れていたのだ。おそらく、生活のいろんな場面で、こういう思考は表れているのだろう。それも、自分の気づかないうちに。今回はたまたま、大学の構内を歩き回るだけでとがめられるはずはないという明確な矛盾点があったために気づいたが、そうでなければ自分が勝手に自分の行動を制限していたとしても、きっと気づかないに違いないのだ。いったい僕は、自分で自分をどれだけ縛っているのだろう。
もともと、ルールというのは嫌いではない。選択をする上での指標になるし、安全で快適な生活を送る上で欠かせないものだし。だが、どうやら僕は、自分で自分にいろいろなルールを課しすぎているようだ。なんでもないことができないし、なんでもないことが思いつかない。壁を破るような発想がまったくできないのだ。もちろんこれは、自分の思考を制限していることだけが原因ではなく、僕の独創性がそもそもないことや、壁を破るような発想法を訓練してこなかったことも原因だろう。だいたい、僕は独創的なことが好きではない。世の中には必要かもしれないが、大抵の場合、独創は異端だ。少なくとも、今まで僕はそういう教育をされてきた。みんなと同じであることが善であるという価値観の中にいたのだ。たぶん、今さらこの価値観は変えられない。それに、みんながみんなで間違っていない限り、判断は正しいのだ。もちろん、全員で間違った判断をすることはありうるわけだが。
ある意味、これが大人になるってことなのかもしれない。常識に縛られて、柔軟な発想をどんどん失っていく。にもかかわらず、柔軟な発想をしろと言われる。学校と社会で矛盾しているのだ。