前にも紹介したが、結城浩氏のWebサイトをもう一度読んでみた。Java言語で学ぶデザインパターン入門のページを見るためだ。おかしいなと思ったところがあったのだが、やはり訂正されていた。で、それはそれとして、このサイトはかなり大きなサイトだ。いろいろと考えさせられる部分があるので、時間のある方は、目を通してみるといいのではないかと思う。キリスト教に関する意見については、説得力はあるのだが、僕は、神様を信じる気にはなれない。自分の目に見えるもの、自分の手に触れるものしか信じられないのは、おろかなことかもしれないが。とりあえず今は、卒論をやっていてそんな余裕はないのだ。
ここに限らず、世の中にはさまざまな役に立つ文書がある。それらに目を通すことは、多くの場合、自分の成長を促すだろう。しかし、ひたすらに文書に目を通しつづけている限り、自分はなにも作ることができない。これがジレンマというものなのかもしれない。
そう言えば、Web日記を書く心がけも非常に参考になった。ただし、参考にはなったが受け容れるつもりはない。誰のために、という点で決定的なずれがあるからだ。この日記は未来の自分のためのものだ。基本的に他人に読ませるものではない。ただ、もし読んでもらえるなら読んでもらえたほうが嬉しいというだけのことなのだ。
世の中には、難しいことを当然のこととしてやっている人がいるものだ。そう、強く感じさせられる。僕もそうあるべきなのかもしれないが。確かに、困難なことを成し遂げるときには、信仰は強い力になるのかもしれない。原因不明の気の迷い、意志の弱さなど、よく分からない問題はいろいろ起こる。信仰はそれらから脱する力になるかもしれない。人を愛すること、人を信じること、人を好きになること。何かを強く願うこと、祈ること、思うこと。そうなれればいいなと思いつつ、現実にそんなことにはならない。人を好きになることで、自分がどれだけ強くなれるかということは、自分自身がよく知っている。それでも、そう簡単に人を好きになるなんてできない。自分の心なんてよく分からないのだ。
そんなときは考えればいい。自分の心と向き合い、正直に逃げずに考えるのだ。だが、考えたくない。思い出したくもない。思い出せない。どれほど抽象的なことを言ったところで現実は容赦なく迫る。心の中で何を考えていても、結局は現実と向き合うほかに道はない。
大抵の場合、答えは決まっている。自分のなすべきことは決まっている。神様が定めたかどうかは知らないが、ほとんどの人は誰かが決めた、やることがある。ただそれを、従順にこなせばいいのだ。