「 世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福もありえない 」
宮沢 賢治 ( 詩人 )
Until the whole world becomes a happy place, individual happiness is impossible.
Kenji Miyazawa
言われてみれば、その通りかもしれない。
しかしながら、「 世界全体の幸福 」 など、達成できそうにない。
もし私が、誰かに 「 幸せですか 」 と尋ねられたら、よほど機嫌の悪いとき以外は、「 ええ、幸せですよ 」 と答えるだろう。
辛いことや、悩み事、悲しいことなど、私も人並みに抱えているつもりだが、私に 「 幸せを感じる心 」 があるかぎり、私は胸を張って答えるはずだ。
目が見えるおかげで美しい風景を眺めることができ、耳が聴こえるおかげで音楽を楽しめるし、丈夫な歯と健康な舌で美味しい食事ができる。
尊敬する両親のおかげで成長し、教育を受ける機会、スポーツに参加する機会を得て、体や精神を鍛え、社会人になってからは働く喜びを体感した。
これだけ、社会や周囲に様々な恩恵を受けながら、もし、幸せでないとしたら、それは 「 自分の努力不足 」 以外に考えられず、恥じるべきである。
だが、その幸せが 「 完璧なものか 」 と自問すると、無条件に 「 はい 」 とは答えられないし、「 幸福であること 」 が 「 不幸がないこと 」 とは違う。
また、冒頭の言葉にある通り、自分の境遇に幸福を感じていても、災害や、犯罪、不幸な出来事に遭われた人々の存在を知ると、良い気はしない。
身近に 「 阪神淡路大震災 」 が起きたときも、NY での 「 9.11テロ 」 が起きたときも、直接的な被害はないが、自分の心に 「 不幸 」 を感じた。
誰がみても不幸だと思える人、あるいは、恵まれた境遇にありながら、この世には 「 自らすすんで不幸になりたがる人 」 もいて、自殺が絶えない。
そんな世界の 「 全体が幸福 」 なんて状況があるのなら、それはもう完璧に幸せと言えるのだが、まず、そんなことはあり得ないだろう。
明治から大正にかけて、東北地方で貧しい農民たちと生活した 宮沢 賢治 の詩に 「 雨ニモ負ケズ 」 があり、どなたも一度は目にされたと思う。
実は、この作品は没後に発見された遺作のメモであり、一般に 「 詩 」 だとして受容されているが、真相については明らかでない。
過去において、この作品を基にした改作や パロディ の類が数多く作られてきたが、最近も、盛岡の小児科医師が発表し、巷で話題になっている。
タイトルは 「 雨ニモアテズ 」 で、小児科医師が職業上、多くの子供たちと接していて 「 まさに現代の子供たちに ピッタリ 」 と実感したらしい。
作者は不詳だが、「 どこかの校長先生らしい 」 と噂されていて、現代っ子に対する悲哀と嘆きが込められている。( 以下に紹介 )
雨ニモアテズ 風ニモアテズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ
ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ
意欲モナク 体力モナク
イツモブツブツ 不満ヲイッテイル
毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ
朝カラ アクビヲシ 集会ガアレバ 貧血ヲオコシ
アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ
作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ
リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ
東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ
西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ
南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ
北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ
日照リノトキハ 冷房ヲツケ
ミンナニ 勉強勉強トイワレ
叱ラレモセズ コワイモノモシラズ
コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ
これを読んで感じるのは、無気力、無関心、無感動 という、時代を象徴する三つの キーワード の存在で、それはけして、子供にかぎった話ではない。
ぬるま湯にどっぷり浸かりながら、政府や他人の批判ばかりして仕事もロクにしない大人、ちょっと嫌なことがあるとすぐに挫折する大人も大勢いる。
自然の雨風に打たれ、太陽を浴び、その恩恵と脅威を知ることや、心身を鍛えること、他人との人間関係を構築することは、なによりも重要だ。
そうした一切を嫌い、自室に閉じこもっては妄想に溺れ、ブログ に耽って、「 アホの一つ覚え 」 の如く、現実逃避の暴論を繰り返す輩もいる。
そんな 「 自らすすんで不幸になる おバカさん 」 のいることも、世界全体の 「 不幸 」 というか 「 不快 」 であり、まことに困ったものだと思う。
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