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2007年09月30日(日) 沖縄戦における集団自決の嘘と真実



「 歴史とは、伝説と化した事実であり、伝説とは、歴史と化した嘘である 」

                   ジャン・コクトー ( フランスの前衛芸術家 )

History is facts which become legend in the end ;
legends are lies which become history in the end.

                                  Jean Cocteau



ジャン・コクトー は、フランスの生んだ 「 世紀の才人 」 と呼ばれている。

詩、小説、戯曲、脚本を書き、画家、評論家、映画監督と、幅広く活躍した。


おそらく、歴史とは 「 伝説化するときに、嘘が混入しやすい 」 ものであり、年月が経てば経つほど、真実とかけ離れた嘘に染まる傾向がある。

最近では、記録媒体が進化したことで、映像や音声の記録が残せるようになり、とんでもない大嘘は通用しなくなってきたが、昔は、それがなかった。

大昔の歴史は、人々が代々、口頭で伝承してきたものが多く、言葉遊びの 「 伝言ゲーム 」 と同様に、伝え間違い、聞き間違いで、内容は変化する。

また、いつの世でも、話を誇張して伝える癖のある人や、自分なりの解釈を付け加える人、少し脚色して 「 面白おかしく伝える人 」 がいたはずだ。

また、誰かが恣意的に 「 自分たちに都合のよい歴史 」 を捏造し、後世に伝えようとした可能性も否定できず、その信憑性は判別し難いものである。


江戸時代の後期、幕末の京都に 「 新撰組 」 という組織が存在したことは紛れも無い事実で、局長 近藤 勇、副長 土方 歳三 らの写真も現存する。

しかし、たとえば有名な 「 池田屋事件 」 を再現した時代劇では、襲撃する隊士の人数や顔ぶれが、作品によって大きく異なることが多い。

諸説ある中で、最も信憑性が高いのは、近藤 率いる10名と、土方 率いる24名に分かれ、近藤隊のみが襲撃したという説である。

子母澤 寛 の記した 「 新撰組始末記 」 によると、近藤隊の奇襲後、敵が逃走してから 土方 は到着したとされるが、土方 が斬り込む作品もある。

この見解が正しいとされるのは、当時、まだ存命だった旧幕臣や、新撰組の元隊士に取材した理由からだが、それでも、真偽の程は断定できない。


もっと大昔の話になると、さらに史実の検証は難しくなり、場合によっては、歴史上の人物そのものが、本当に実在したのかさえ不明なものもある。

逆に、まだまだ当時の証言者が存命しているような、比較的に新しい事件でも、真偽の程は疑わしい歴史的事実というものが、いくつか存在する。

それは、たとえば 「 ケネディ大統領が暗殺された真相 」 のように、証言者によって供述が矛盾していたり、捜査方法に疑問のあるケースなどだ。

あるいは、単純な顛末なのかもしれないが、そこに人々が疑念を抱くのは、重大な組織的利害関係が絡み、それは謀略の可能性を含むからである。

そういう意味で、多くの日本人や、日本に関心の高い外国人にとって、最も真偽を確かめたい事柄が多く潜むのは、「 太平洋戦争の真実 」 だろう。


何千年も前の神話ではなく、せいぜい 60 〜 70年前の事柄だが、戦時中は軍部によって報道統制が敷かれ、多くの真実は民間人に伝えられない。

また、戦時中は軍事的、政治的な目的から、戦後は占領政策や左派思想の台頭から、史実が何者かにより、至る所で捻じ曲げられた形跡がある。

当時を知る生存者がいるのだから、「 生き証言 」 の聴取も可能だが、立場や利害の違いからか、同じ案件でも証言の一致しないことが多い。

私自身、知人や親族から戦争体験を聴く機会も多かったが、本人の性格、戦争に対する意識、国家への忠誠心の違いなどで、証言は微妙に異なる。

高齢で、過去の記憶が曖昧なせいもあるが、同じ事件でも証言が食い違う 「 個人差 」 に、ある一定の法則が存在することを、私は発見した。


それは、自身の戦争体験における 「 恐怖度 」 の違いで、証言の内容や、話し方に大きな差が生じているという共通点である。

実戦に参加したり、空襲を受けて 「 大きな恐怖を感じた人 」 は、その場にいなかった事件 ( 南京大虐殺など ) でも、鵜呑みにして語る人が多い。

特に、戦争で負傷したり、家族を失った人は、恐怖に加え 「 戦争と、それを主導した国家 」 というものに、潜在的な憎悪を抱いている。

愛国心が希薄なわけではないけれど、自国の責任を追求し、過去を断罪したい気持ちが強く、時代の逆行する気配を感じると、敏感に反応しやすい。

従軍はしたが、難なく無事に生還した人々の証言に比べると、中立性や、冷静さに違いがあるのは、事情を鑑みると、仕方のないことだと思う。


沖縄戦で起きた 「 住民の集団自決 」 を巡って、文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民大会があり、約11万人が参加したらしい。

来春から使用される高校日本史の教科書検定で、従来、認めていた日本軍の強制性に関する記述が見直され、削除、修正されることが決まった。

今回の県民大会では、その検定意見を厳しく批判し、撤回と、集団自決を巡る強制性の記述回復を求める決議を採択したという。

この問題は、最近になって 「 強制性はなかった 」 とする証言や、軍による命令を否定する学説が現われ、実際のところ、真偽が解明されていない。

なかには、軍人の好意により 「 どうせ自決したなら、軍の命令としたほうが遺族年金をもらえるから 」 と、後から強制性が付け加えられた説もある。


もちろん、当時を知る御老人を含め、沖縄県民を嘘つき呼ばわりするつもりはないし、そこに悲惨な過去があったことは、まったく疑う余地もない。

ただ、沖縄で暮らしていても、その現場を実際に体験した人で、なおかつ 「 先入観がなく、冷静に振り返られる人 」 でないと、証拠能力は低い。

たとえば、通常の殺人事件に置き換えると理解しやすいが、事件が起きた現場の近くにいて、悲鳴を聞いただけでは、「 目撃者 」 と言えない。

実際に犯行現場を目撃したわけでなく、誰が犯人なのか特定できないのに、前後の経緯から推察して結論を下すのは、客観性を欠いた判断だ。

重ねて申し上げるが、そういう人々の証言は、悪意のこもった 「 嘘 」 ではなく、恐怖と悲嘆に満ちた 「 反戦の声 」 だと、解釈することが望ましい。


この日、疑問に感じたのは、高校生代表が登壇し 「 嘘を真実と言わないでください。私たちは真実を学び、子供たちに伝えたい 」 と訴えたことだ。

本当に真実を学びたいならば、確定していない事柄を 「 嘘と決め付ける 」 のは適当でないし、それが 「 正しい歴史認識 」 にはつながらない。

本人はおろか、自分の親さえも生まれていない戦争時代のことを、片方の主張だけ盲信する形で、やみくもに反発するのは 「 学ぶ姿勢 」 でない。

その背後には、彼らを洗脳し、誘導している連中がいるものと思われるが、もちろん、その 「 強制性 」 も、証拠がないので憶測に過ぎないものだ。

いづれにせよ、こういった問題は情緒的な主張に流されず、科学的に解明すべき事柄だし、白黒つかないなら、断定的な記述は避けるべきだろう。






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