| 2008年01月14日(月) |
地球の心配より、自分の心配をすべき人々 |
「 たとえ太陽系と天体の全部が壊れたとしても、
君が死ぬのは一回きりだ 」
トーマス・カーライル ( イギリスの歴史家、評論家 )
The crash of the whole solar and stellar systems could only kill you once.
Thomas Carlyle
ある意味において、一人の人間の死は、一つの宇宙の消滅かもしれない。
死んじゃったら、その人の宇宙も、地球も、すべて終わりである。
とはいえ、子孫の代まで暮らしやすい環境を残そうと思えば、大気汚染やら、環境破壊やらは、ほどほどにしておかねば、先が思いやられる。
地球温暖化についても、関連する問題に気付いたからには何らかの対策を講じるべきだろうが、あまり神経質になりすぎるのはどうかと思う。
多くの人が、「 自然環境 」 なるものに敬意を払うけれど、それに矛盾して、あたかも 「 人間がそれをコントロールできる 」 かのような錯覚をしている。
人間のエゴによって、絶滅に瀕した動物を救おうとか、自然環境を取り戻そうなんて考え自体が、考えようによっては 「 人間のエゴ 」 かもしれない。
壊すことも、元通りにすることも、人間なら何でもできるという思い上がりに、ちょっと納得できない点を感じるのは私だけだろうか。
学者さんによると、そもそも地球上に最初の植物が芽吹く前は、大気中に酸素がほとんど無くて、あるのは二酸化炭素だけだったらしい。
二酸化炭素は植物の生育に必要なものだが、そのままなら、やがて植物が排出した酸素は空気中に充満し、すべてが窒息死したはずである。
ここに、酸素を吸収して二酸化炭素を吐き出す 「 新たな生物 」 が登場したことで、地球は、非常に効率の良い酸素処理システムを実現した。
炭素を多量に含有した植物の一部は循環から逸れ、地中の堆積物に覆われて石油や石炭に変わり、あるいは、地球の有機物を奪い続けただろう。
埋蔵された炭素を汲み上げて燃やし、循環を従来の軌道へと戻したのは、ご存知のとおり 「 人間 」 であり、石油採掘も自然に反する行為ではない。
最近は、自然や地球環境に良いとか、悪いとかの判断を、偏った断片的な情報と、目先の事情で行う人々が急増し、どうも話がややこしい。
もっと大事なことは、「 自分の目の前にある “ やるべきこと ” を真面目に取り組み、しっかり働くこと 」 であって、それ以外には無関心でよいのだ。
過剰に 「 地球の心配 」 なんぞをしている連中は、それが与えられた仕事でないかぎり、よほど暇か、自分の失敗を他者に押し付けたい御仁である。
自分に与えられた課題を上手く処理できず、その責任から逃れる口実として、「 こんな小さな問題など、どうでもよい 」 と思い込みたいのだ。
その結果、ことあるごとに 「 地球の未来が心配だ 」 などと仰るわけだが、周囲からすると、「 いや、その前に “ お前こそ大丈夫か? ” 」 となる。
もちろん、資源を大切にしたり、無駄遣いをなくすのは良いことだが、それで地球が救われるとか、滅びるなどと考えるのは、思い上がりというものだ。
たとえば、大きな火山が一度噴火したら、現代人が十年間に汚染するのと同じぐらいの空気を汚してしまうのが実態である。
自然は、人間の力や努力などを超越した規模で存在し、そのメカニズムを研究したところで、我々がコントロールできるような代物ではない。
かつて、多くの生物が絶滅したのと同じように、地球や自然に 「 必要ない 」 と判断されれば人類は絶滅するし、そうでなければ生き残るだろう。
お説教じみた話だが、それぞれが一生懸命に働き、社会に貢献して、誰かにとって必要な生き方をしていれば、滅びはしないんじゃないだろうか。
|