| 2008年03月10日(月) |
仰げば尊し、わが師は逮捕 |
「 文に秀でていても、徳を欠けば学者ではない 」
中江 藤樹 ( 儒学者 )
No matter how learned you may be, you are not a scholar if you lack virtue.
Tojyu Nakae
コミュニケーションにおいて、言葉の果たす役割は 7% といわれる。
残る 93% は、当然、言葉以外の方法で、人は想いを伝えているのだ。
言葉による意思の伝達 ( バーバル・コミュニケーション ) の10倍以上を、言葉以外による伝達 ( ノンバーバル・コミュニケーション ) が占める。
たとえば、恋人との待ち合わせ時刻に遅れた場合、「 怒ってる? 」 と相手に尋ね、「 怒ってないよ 」 と回答された状況を、頭に思い浮かべてほしい。
文字にすると 「 怒ってないよ 」 なのだから、相手は許してくれていることになるが、はたして、それを額面通りに受け取ってよいものだろうか。
もしも、相手が柔和な微笑みを添えて、優しく 「 怒ってないよ 」 と言ったのなら、これは、おそらく本当に、咎める気はないと判断できるだろう。
しかし、こちら側に顔も向けず、いかにも不機嫌そうに 「 怒ってないよ 」 と冷たく言い放ったら、“ 本当は怒っている ” のではないかと感じるはずだ。
あるいは、ユーモラスな表情でおどけながら、「 怒ってるもーん♪ 」 などと可愛く唇を尖らせ、甘えて腕を組んできた場合は、どうだろうか。
言葉で 「 怒ってる 」 と口にするか、「 怒っていない 」 と口にするかよりも、相手の仕草や表情こそが、実は、本当の気持ちを物語っている。
このように、言葉というものは、事務的に出来事を伝えるツールとして適しているが、その人の感情や、性格などを十分には伝えきれない。
ブログの場合も、たとえば、ある一日の文章だけをみて、どのような人格の作者なのか、どういった思考の持ち主かを、判断することは難しい。
継続的に読み続けて、初めて “ その人物の本心 ” が読み取れるもので、ただ一日だけなら、「 心にもない奇麗事 」 を書き並べることも可能だ。
埼玉県川口市の高校では、元教え子の20代女性に関係を迫り、100通もの脅迫メールを送りつけた疑いで、校長が逮捕される事件が発生した。
逮捕は、奇しくも 「 卒業式 」 直後で、その日も校長は演壇に立ち、居並ぶ卒業生に対して、「 社会に貢献できる人間に 」 と説話したらしい。
学校側は 「 卒業証書の再発行 ( 校長名を削除したもの ) 」 など、対策に応じる準備を進めているが、とんだ 「 仰げば尊し 」 になってしまった。
こういう事件で憤りを感じるのは、責任逃れのつもりか 「 普段は真面目で教育熱心な先生でした 」 などと語る、教育委員会や同僚の談話だ。
異常者、犯罪者などは、日頃の言動を観察し続ければ見破れるものだし、本当に気付かなかったとすれば、まったく 「 人を見る目 」 がなさすぎる。
この 「 変態校長 」 も、卒業式では生徒を前にして “ ごもっともな訓示 ” を垂れているが、重要なのは言葉そのものでなく、語り手自身の人格だ。
三流の政治家、反社会的教師、やる気のない会社員など、日頃の精進も出来ていない無能な連中が、言葉だけは一人前に、立派な御託を並べる。
そんなとき、「 アンタの話はわかるが、アンタにだけは言われたくない 」 と感じる場面が、どうも近頃、世の中には多い気がしてならない。
生徒が話を聴かないとか、子供が躾に従わないとか、上司が耳を貸さないとか、部下が命令を理解しないと嘆く前に、まず、自身の反省が必要だ。
いくら言葉や文章の精度を発達させても、人から 「 一目置かれる存在 」 にならねば、人の心に響かせることはできないことを、知るべきだろう。
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