「 人生は トランプ・ゲーム に似ている。
配られた手は決定権を意味し、どう切るかは貴方の自由意志だ 」
ジャワハルラール・ネルー ( インドの初代首相 )
Life is like a game of cards. The hand that is dealt you represents determinism ; the way you play it is free will.
Jawaharlal Nehru
童話 『 アリ と キリギリス 』 は、子供に 「 勤勉の重要性 」 を説いている。
そこに登場するのは、一生懸命に働く アリ と、怠け者の キリギリス だ。
夏の間、汗だくになって働く アリ を、キリギリス は 「 うぜぇ奴ら 」 と横目で嘲笑い、趣味のバイオリンを弾いたり、遊び呆けながら暮らしている。
やがて食物の採れない冬になり、飢えた キリギリス は凍える足で アリ の家を訪ね、心優しい アリ は、備蓄しておいた食糧を与えてやる。
我々が子供の頃は、この話を聴いて 「 遊んでばかりいて怠けると、後から惨めな目に遭うのだろう 」 と思い、勤勉の重要性を感じた記憶がある。
近頃は、“ 価値観の多様性 ” が認められる社会になり、この話に 「 誰もが アリ のように働く必要はない 」 と、否定的な考えを示す子供が増えている。
飢えた キリギリス が訪ねて行くと、膨大な食糧と、働きすぎて 「 過労死 」 した アリ の遺体があった … なんて、オチ を想像する子も多いそうだ。
一生懸命に働くことが 「 善 」 で、働きたくないから怠けていることが 「 悪 」 だと決め付けるのは、たしかに、今風の考え方ではない。
私の知人には “ 筋金入りのニート ” がいて、どうせ短い人生なのだから 「 我が生涯に一片の職歴なし ! 」 と豪語し、ブラブラと遊んでいる。
誰もが同じように、真面目に勉強して、定職に就き、一生懸命に働いて蓄財しなければならないわけではなく、各人が自由に生き方を決めればよい。
ただ、それなりに恋をしたり、お金を稼いだり、人並みの暮らしを手に入れたければ、ある程度は真面目に働かなければならないのも必定である。
遊んでばかりいた キリギリス が、豊富な食糧を得た アリ に対し、不公平だとか、「 格差社会だ 」 などと愚痴を吐くのは、理不尽というものだろう。
社会には、本人の努力だけでは解決しない 「 不可抗力的な弱者 」 がいる一方、本人が努力を怠ったことによる 「 必然的な弱者 」 も存在する。
すべて万全というわけではないが、幸いなことに日本という国家は、前者の 「 不可抗力的な弱者 」 を救済する制度が、かなり整った環境にある。
古来より共同体意識が根強い日本は、富める者が貧しい者に分け与える伝統を擁し、資本主義国家の中では断トツに、貧富の差が少ないのだ。
お隣の中国と見比べた場合、一体どちらが社会主義なのか、その判断に苦しむぐらいである。
あまり海外の実態を知らない方は、福祉が不十分だと感じるかもしれないが、けして 「 不可抗力的な弱者 」 を切り捨てるような国ではない。
問題は、後者の 「 必然的な弱者 」 のほうで、いわば 「 好き好んで貧乏になった人 」 や、「 働けるのに働かない人 」 の処遇である。
冒頭の言葉が示す通り、大半の人にとって人生は 「 選択の問題 」 であり、勤勉を選択しなかった人が金銭的に困窮するのは、必然の結果だろう。
真面目に働く、働かない、仕事に生き甲斐を感じる、感じないは個人の自由だが、そこに自由を求めるのなら、その結果も享受する必要がある。
活き活きと働き成果を残した者が、嫌々ながら働き 「 企業の害 」 になっている者を救済する仕組みは、これ以上に拡大すべきではない。
あまりにも 「 弱きを助け、強きをくじく 」 仕組みが大きくなり過ぎると、全体のモチベーションが低下し、経済の発展に弊害をもたらすだろう。
老人の医療費負担が増加することに対し、反対の声をあげる御仁がいて、儲かってる企業に増税したり、若者の負担を増やせばよいという。
当然、気の毒な境遇の老人もいるだろうが、老人というのは、ある日を境にして、いきなり突然的に老人へと変化するわけではない。
老後への備えとして、一生懸命に働き、お金を稼いだり、蓄財をするための時間は、十分にあったと考えてよいはずだ。
利益が出たからといって過度の重税を企業に強いれば、本拠地を移転するだろうし、若者の負担をかけすぎると、彼らの生活が成り立たない。
高齢者への医療費負担は、まだまだ少ないぐらいで、この程度の金額に 「 年寄りは死ねと言うのか 」 などと怒るのは、まったく筋違いである。
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