2008年04月26日(土) |
過剰配慮社会に対する警戒感 |
「 われわれは時代の変化に適応しながらも、
変わらぬ原則を持ち続けなければならない 」
ジミー・カーター ( 第39代アメリカ合衆国大統領 )
We must adjust to changing times and still hold to unchanging principles.
Jimmy Carter
最近の日本は、一種の 「 過剰配慮社会 」 になりつつある。
そんな気がするのは、私だけなのだろうか。
老人、子供、障害者、被差別部落出身者、在日外国人、女性など、各人の所得や境遇を度外視し、すべて 「 社会的弱者 」 と位置づける人がいる。
政治家にも、こうしてカテゴライズされた対象を 「 福祉 」 や 「 社会参加 」 の課題として吸い上げれば、他に問題が無いような顔をする者が多い。
たしかに、強い者が弱い者を助け、富める者が貧しき者に手を差し伸べる心がけは大切だが、これでは 「 弱い 」、「 貧しい 」 の判断に問題がある。
たとえば老人を例に挙げると、65歳以上の男女で 「 寝たきり 」 の状態にある人は 「 60人に一人 」 という実態を、知る人は少ない。
すでに家財は揃っている上、定年まで勤め、往時に貯めたお金と、相応の退職金を基に、悠々と年金で食べていける老人も 「 弱者 」 に含まれる。
その一方で、先に述べたカテゴリーに含まれない人たち、社会的、政治的な 「 弱者 」 の枠組みに引っかからない立場の人たちにも苦悩はある。
日本企業の多くは、いまも年功序列型の給与体系がみられ、結婚、出産を控えた若いサラリーマンの生活は、けして楽なものといえない。
彼らの賃金を増やそうにも、かつての高度成長期と違い、雇用する企業側にも余裕がないわけで、そう簡単にはいかないのが実情だろう。
老人の医療費を減額し、企業や、若い層に負担を強いればよいという意見もあるが、はたして、そんな単純な論理で世の中は良くなるのか。
四六時中、必死で働き、年老いた親と、奥さんと、子供を養っている若者がいたとして、遊んでいる老人、子供と、若者の、どちらが 「 弱者 」 なのか。
あまりに情緒的な 「 社会的弱者 」 への配慮が過ぎると、それ以外の個別の生が抱えた困難な課題は、存在しないかのような錯覚に支配される。
先日、死刑判決が下された 「 山口県光市母子殺害事件 」 でも、弁護団らが語る被告への同情、憐憫を誘う訴えは、明らかに均衡を欠いている。
未成年であること、父親の虐待、母親の自殺など、被告が 「 社会的弱者 」 であったことは事実だが、それで許される犯行ではない。
裁判所は退けたが、それを不服とし、上告する弁護団の姿勢には、彼らの 「 職業倫理 」 に対する不信と、「 過剰配慮 」 への憤りを感じる。
理不尽に人を殺しておきながら、「 弱者が、国家によって殺される 」 などと詭弁を弄するのは、法に携わる立場にある者として、いかがなものか。
結果として死刑にはなったが、この裁判では 本村 洋 さん の涙ぐましい姿と、弁護団による荒唐無稽な弁舌が、世論を左右し、判決に影響した。
仮に、遺族が感情的な態度をみせ、弁護団が真摯な姿勢で臨んでいたら、あるいは違う結果になっていたかもしれない。
戦後民主主義の 「 弱者に優しく 」、「 弱者に福祉を 」 というスローガンは、否定すべき根拠がなく異を唱えられぬ、理想的な命題のように思われる。
ただ、犯罪者であろうが何だろうが、すべて弱者という観点から同一視し、「 個別性に対する鈍感さ 」 が生じつつあることに、警戒する必要がある。
そうしないと、「 少子高齢化 」 などの問題を抱える日本は 「 弱者だらけ 」 になり、近い将来、本当に困っている善人を救えない状況に陥るだろう。
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