2008年06月05日(木) |
婚外子国籍訴訟で、日本人になった子供の笑顔 |
「 校門をくぐったら、憲法よりも校則が優先する 」
福岡県内にある某高校の校則
School regulations are more important than the Constitution inside the school gates.
School regulations of a certain senior high school in Fukuoka.
十数年前、『 朝日新聞 』 に投稿され、問題になった校則である。
多方面より非難を浴びたので、今は削除されていると思う。
実態として、憲法で保障されている権利を、学校の定めた規則で奪っている例はあり、たとえば 「 男子生徒は全員が丸坊主 」 などが、それにあたる。
ただ、校則と憲法を同じ土俵に並べ、「 校則が優先 」 などと明記すれば、当然、憲法が大好きな人々から、「 何様のつもりだ 」 と攻撃される。
実際には、校門をくぐったとき、何が優先されるべきかというと、校則でなく、憲法でもなく、いかなる規則よりも 「 学生 」 そのものである。
自分の思考を持たず、出来合いの思想に凝り固まる者を 「 原理主義者 」 と呼ぶが、常に、校則だの、憲法だの、規則に執着する連中が含まれる。
世の中の実態を知ろうともしないで、机上論ばかりを展開し、浅薄な知識をひけらかす 「 実社会では役に立たない人々 」 に、その手の人物が多い。
日本人の父、フィリピン人である母との間に生まれ、日本語を話しながら、それでも日本国籍がなかった子供たちに、最高裁は、日本国籍を認めた。
国籍法により、未婚の日本人父、外国人母の間に生まれた子供が国籍を取得するには、「 生後認知 」 と 「 父母の結婚 」 が必要とされる。
それで、出生後に認知を受けても、今回の原告である子供たちのように、日本で生まれ、育ちながらも、国籍が取得できないケースが発生する。
本日、司法記者クラブでは、10歳から14歳の子供らが記者会見に応じ、それぞれに 「 やっと日本人になれた 」 と、素直に喜びを表した。
国籍が無いことで、学校でのイジメ、将来への不安と向き合ってきた彼らの晴れやかな表情を見ると、幼い頃からの夢が叶って良かったと思う。
婚外子国籍訴訟と名付けられた今回の裁判で、国籍が認められたことへの異論はないが、納得できないのは、その 「 争点 」 と 「 判決理由 」 だ。
争点は、父母の結婚を子供の国籍取得要件にしている国籍法の条項が、「 合憲かどうか 」 という部分に絞られていた。
そして判決では、「 違憲だ 」 という憲法判断に基づいて、不幸な身の上の子供たちに、日本国籍が与えられる結果となったのである。
判決に臨んだ裁判官に、子供の悲痛な願いが届いたかどうかは別として、その理由が 「 人道的判断 」 でなく、「 憲法判断 」 というのはどうか。
日本国憲法を高く評価するのは自由だが、それは、幼い子供たちの未来や、憧れや、生きる権利を上回るほど、尊重すべき規則なのだろうか。
いくら立派な規則でも、それ自体に価値があるのではなく、それを遵守することは、大切な何かを守るための 「 手段 」 であって 「 目的 」 ではない。
戦後、「 負け犬 」 と化した日本人の多くには、憲法への 「 原理主義 」 と、「 偏重思想 」 が染み付いており、その過剰な執着ぶりは、目に余る。
改憲派も、護憲派も、『 戦争の放棄 』 という項目ばかりを論議しているが、私自身は、そんな項目など 「 どうでもいい 」 と思っている。
もしも戦争になり、実際に弾丸が飛び交えば、憲法の条項など気にしている余裕はないわけで、そんな 「 紙切れ 」 の存在など問題にならない。
それよりも、憲法を重視するあまり、それが 「 誰のための規則か 」 ということを、すっかり忘れている風潮のほうが、はるかに忌々しき問題だ。
たとえ質素な生活でも、「 生きることが最大の使命 」 と考えて健気に生きる人もいれば、少しでも不満を感じただけで、簡単に自殺する人がいる。
貧乏より裕福なほうが、醜いより美しいほうが、不健康より健康なほうが、格好悪いよりは格好良いほうが、たしかに人生は楽しいだろう。
しかし、それらは人生の 「 修飾的要素 」 であり、どのような形でも、生きること自体が 「 最優先課題 」 であることを、忘れてはならない。
こうした 「 主 」 と 「 従 」 の関係、「 手段 」 と 「 目的 」 の関係、あるいは物事の優先度について、本末転倒の勘違いをする人が増えている。
憲法とは、国民にとって 「 重要ではあるけれど、国民生活以上の価値など無い 」 ことを認識し、「 規則より人間に目を向ける社会 」 が理想だと思う。
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