2008年06月08日(日) |
秋葉原殺傷事件は、殺人でなく 「 間接自殺 」 である |
「 自分の庭を小奇麗に保ちたい人は、雑草が生える区画を残さない 」
ダグ・ハマーショルド ( スウェーデンの政治家、国連事務総長 )
He who wants to keep his garden tidy doesn't reserve a plot for weeds.
Dag Hammarskjold
雑草にも生命があり、それを引っこ抜くのは 「 可哀想 」 な気もする。
されど、花壇を綺麗に保ちたければ、除去するしか方法はない。
つまり、同じ植物でありながら、見事な大輪を咲かす花、豊かな実をつける果物、栄養価の高い野菜などと、雑草の共存は難しい。
役にも立たない雑草を野放しにすると、それが土壌の養分を吸い取って、肝心の作物を枯らしたり、成長を妨げてしまうからである。
人間の世界でも、まっとうに生きる人間の害となって、迷惑を及ぼす連中は存在するが、人間は植物と違い、「 努力次第では 」 立場を変えられる。
その 「 努力 」 とは、けして自暴自棄にならず、目的を持って生きることで、嫌々ながら怠惰に暮らしていては、いつまでも雑草のままである。
現実的な話をすると、すべての人間が努力するわけではないので、全体の何割かは雑草となり、それを放置すると、さらに雑草は増えてしまう。
6月8日午後0時35分頃、東京都千代田区外神田4の 「 秋葉原電気街 」 の交差点で、2トントラックが歩行者数人をはねた。
直後、トラックを運転していた男が車を降り、持っていたサバイバルナイフで歩行者らを次々に刺し、そのうち7人が死亡、10人が怪我を負った。
警察官によって現行犯逮捕された 加藤 智大 容疑者 ( 25 ) は、犯行の動機について 「 世の中が嫌になったから 」 と話しているらしい。
殺害する対象が 「 誰でもよかった 」 ことから、「 無差別殺人 」 だとか、「 通り魔殺人 」 と呼ぶ人もいるが、この犯行を表すには不適切だ。
犯人は、逃走経路を確保しておらず、逮捕、あるいは射殺されることを知りながら犯行に及んでおり、これは明らかに 「 間接自殺 」 の部類である。
2001年、大阪府池田市の小学校で、宅間 守 が無差別殺傷事件を起こしたのも、「 6月8日 」 だったので、犯人がこの日を選んだ可能性はある。
彼の動機も、「 何もかも嫌になったが、自殺しても死にきれず、大量殺人をして死刑になりたかった 」 というもので、今回の事件に酷似している。
こういった事件を、法的には 「 殺人 」 として扱われるが、犯行に至るまでの心理を解析していくと、それは、どうみても 「 自殺 」 の範疇にある。
つまり、この事件を 「 殺人 」 として捉え、善後策を考えたところで、同様の悲劇は止まらず、「 自殺 」 に関する社会の認識を改めることが重要だ。
生きるのが嫌、働くのが嫌、などと人前で語ることを 「 恥 」 だとも思わない風潮、自暴自棄を一種の 「 個性 」 とみる風潮が、こうした事件を生む。
一時期、イギリスには自殺を 「 犯罪 」 に問う制度があり、自殺者が激減する効果を挙げたけれど、人権団体などの抗議により消滅した。
自殺を 「 個人の問題 」 と考える人もいるが、相次ぐ硫化水素による自殺などでわかるように、それは、他人を巻き込む危険が高い。
逆に、「 まったく他人に迷惑を掛けない自殺 」 なんてものは、ほとんど存在しないわけで、自殺を図る連中のために、世間は大いに迷惑している。
過去において、「 自殺者を救おう 」 という運動は多かったが、これからは 「 自殺者による犠牲をなくす 」 という主旨で、自殺企図者を罰するべきだ。
自殺は 「 罪 」 であり 「 恥 」 だという認識を持たず、同情や憐憫を寄せる 「 自殺に甘い社会感覚 」 の下では、同種の悲劇が繰り返されるだろう。
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