2008年06月16日(月) |
宮崎 勤 : 死刑囚に 「 人権 」 はあるのか |
「 われわれを人間にするのは、選択する能力である 」
マデレイン・レングル ( アメリカの女流作家 )
It is the ability to choose which makes us human.
Madeleine L’Engle
死刑制度については、それに反対する意見も多い。
それが本当に 「 犯罪の抑止力 」 になっているかは、たしかに疑問だ。
しかしながら、では、死刑という制度を無くした場合、被害者や、その遺族の抱える無念、有形、無形の損失を、どうやって犯人に償わせるのか。
その明確な 「 答 」 なり 「 代替案 」 が無いかぎり、やはり死刑制度は必要であって、廃止するわけにはいかないだろう。
1988〜89年に起きた連続幼女誘拐殺害事件の 宮崎 勤 死刑囚 ( 45 ) に対する死刑が、事件発生から20年を経て執行された。
彼は、「 絞首刑は残虐 」 だとして、薬物投与による死刑執行を望んでいたようだが、彼に 「 死に方を選ぶ権利 」 などあったのだろうか。
何の罪もない幼女を ( 死に方など選ばせずに ) 殺害しておいて、自分は死刑を免れたいとか、執行方法に不満があるとか、よく言えたものである。
日本には年間 3万人以上の自殺者がいて、先般の秋葉原連続殺傷事件など、自ら 「 死刑を望む者 」 がいる以上、凶悪事件の抑止効果は薄い。
実際、宮崎 死刑囚 の執行後も、巷の凶悪犯罪は隔絶されそうにないし、「 人を殺せば、君も殺すよ 」 だけでは、社会秩序が保てないだろう。
それでも、他人の命を無慈悲に奪った者は 「 生き方、死に方を選べない 」 ことを制度として維持し、社会の 「 掟 」 として定める意義はある。
どうしても死刑制度を廃止するのならば、残された遺族には 「 復讐権 」 を与え、個人的に報復する権利を認めるべきだろう。
本来、死刑という仕組みは、そのような 「 復讐 」、「 仇討ち 」 を防ぐために設けられた制度であったことを、けして忘れてはならない。
宮崎 勤 のような死刑囚にも 「 人権 」 があると主張する人や、彼は病気 ( 精神病 ) なのだから、刑を免除すべきだと語る人がいる。
なるほど、彼も 「 人間 」 の姿をしているから、人権を保持するという見方はできるし、幼女を殺害する性癖は、特有の 「 病気 」 なのかもしれない。
だが、たとえ病気による所為であっても、自分の欲望を果たすためだけに、いたいけな幼女を殺害する者は、「 人間 」 の定義に当てはまらない。
人間とは、自制心を以って、己の行動をコントロールできる者、自分と他人の生命を尊重できる者を指し、無軌道に欲望を吐き出す類ではない。
現代社会で、死刑を宣告された者たちは、すべて 「 人間とは呼べない者 」 であり、そう考えると、死刑に対する罪悪感、反対論も違ってくるはずだ。
|