2008年07月17日(木) |
野茂 英雄 「 日本の最高の輸出品 」 の引退 |
「 彼は “ 日本の最高の輸出品 ” である 」
ビル・クリントン ( アメリカ合衆国第42代大統領 )
He is " The Japanese best export ".
William Jefferson “ Bill ” Clinton
1995年、日本人プロ野球選手が LA・ドジャース とマイナー契約を結んだ。
年俸は、前年度の 1億4000万円 から、わずか 980万円 になった。
プロ野球史において、野茂 英雄 を 「 日本人初のメジャーリーガー 」 だと勘違いしている人も多いが、実は、そうではない。
1964年に、南海 ホークス ( 現 ソフトバンク ホークス ) から 村上 雅則 という投手が野球留学し、その後、メジャーのマウンドに立っている。
54試合に登板し、5勝 1敗 9セーブ という好成績を挙げていたが、南海 と、移籍先の サンフランシスコ ジャイアンツ が 「 保有権 」 を巡って紛糾した。
その結果、65年のシーズン終了後に帰国したが、それから 野茂 が登場するまでの 30年間、メジャーに挑戦する選手は一人も現れなかった。
だから、野茂 が 「 メジャーに行くぞ 」 と言ったとき、どこまで本気なのか、アメリカで通用するのか、その結末は、誰にも想像できなかったのである。
メジャー初年度 の成績は 13勝 6敗、236奪三振で、新人王と、奪三振王の二冠を獲得したが、日米両国で新人王を受賞したのは、彼だけの快挙だ。
翌年は 16勝を挙げたうえ、ノーヒットノーラン の達成や、打者として日本人初の ホームラン を記録するなど、さらに活躍が目立つ一年だった。
当時、人気が低迷し、スター選手の登場を待ち望んでいたメジャーリーグにおいて、野茂 の活躍は大きな話題となり、観客数の増加にも貢献した。
全米の子供たちが、「 トルネード投法 」 と呼ばれる独特の投球フォームを真似るほど、 野茂 は、社会現象を巻き起こすほどの人気者になった。
当時、大統領だった ビル・クリントン は、野茂 を “ 日本の最高の輸出品 ” と形容し、メジャーリーグ界全体の発展に寄与する功績を称えた。
今日までに、日米通算 201勝を挙げた 野茂 が、「 現役引退 」 を発表したことが明らかになり、ファンの一人として、一抹の淋しさを感じる。
本人は、最後まで現役続行を希望していたが、獲得の意向を示す球団は無く、「 これ以上、続けても周囲に迷惑が掛かる 」 と決断したらしい。
成績も立派だが、過去の輝かしい栄光に拘らず 「 野球が出来るのならば、どこへでも行く 」 という真摯な姿勢に、胸を打たれた人も多いだろう。
アメリカの独立リーグ球団や、日本の社会人クラブチームに私財を投資し、未来のプロ野球選手を夢見る子供たちに 「 野球で恩返し 」 もしている。
残念なのは、古巣の LA ドジャース から勝ち星を挙げて、史上二人目の 「 メジャー全30球団から勝利を挙げる快挙 」 が達成できなかったことだ。
彼の功績は、「 野茂 に続け 」 と願う幾多の日本人メジャー・リーガーらの先駆者として、「 日本人はメジャーで通用する 」 と証明したことが大きい。
野茂 が渡米した 1995年 以降、メジャー選手における有色人種の比率は変わらないが、「 黒人選手の割合が半減した 」 というデータがある。
つまり、アジア人や、ヨーロッパ人など、世界中の国々から選手を獲得する習慣が広まり、メジャーが門戸を開いた時期と、野茂 の活躍は重なる。
おそらく本人には、大それた野心などなく、「 ただ野球を続けたいだけ 」 と答えるだろうが、間違いなく、彼には “ パイオニア ” の称号が相応しい。
彼の両親が、どのような願いを込めて命名したのか不明だけれど、彼は、その名前に負けない、永遠の “ 英雄 [ HERO ] ” であり続けるだろう。
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