楓蔦黄屋
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2020年11月06日(金) 癸丑・パーティション

「ラヂオの時間」を観る。もう何回目だ。

保坂アナウンサーがパタッ!と台本を閉じて
「その時だった!」と喋り始めるシーンで
年々流す涙の量が増えている。

おかしなシーンなのに泣く。
最近観た「誰かが、みている」もそうだったけど
おかしいけどなぜか胸がいっぱいになる。三谷幸喜映画。

「short cut」も大好きだ。
「大空港2013」も大好きだけど、まだちょっと観られない。観られなかった。

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自分の死に関してはどうとでも言えるけども、
他人の死はただただ哀しい。
ほんとうに哀しい。

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仕事の仕方を変えたので、今まで仕事場で使っていた机がひとつ空いた。
なのでレコードプレイヤーを出しやすくなって、
なんだかルーティンのように毎日レコードを回す。

起きて、なんやかんや支度して、
仕事を始める前のうだうだした数分にレコードが聴きたいなと思うようになってけっこう経つ。

たった一人で仕事をするのはつらいときもあるが
こうやってレコードを聴きながら仕事の準備を始められるところは素敵だ。

たいていYUKIかChara+YUKIを聴く。


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脳内で
ひとつのことを処理できる領域は
じつは限られている。

仕事でいっぱいいっぱいで、他のことなんてできないと思っていても、
それは自分を100%使ってるわけではなくて、
限られた領域の中での100%にしかすぎない。

エンジニ屋さんに就職したとき、
社外研修でならった、ハードディスクのパーティションの話が
なぜかずうっと心にひっかかっていた。

一番初めに、ハードディスクの中を区切って
それぞれに使う領域を決めるのだと。

最近になって、人間もそんなようなものじゃないかと思うようになってきた。

仕事をする領域、
家事をする領域、
育児をする領域、
遊ぶ領域。
それはあらかじめ区切られていて、たとえば
家事をする領域を仕事に割り当てることは
当たり前にやっているようでいてきっとできないのだ。

そう思うようになってから、
仕事も家事も、その他のことも、
同じようにやれること、
回していけること、
すべてはつながっていることを
体感している。

楓蔦きなり

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